橘公長 (TACHIBANA no Kiminaga)
橘 公長(たちばな の きみなが、生没年未詳)は平安時代末期の橘氏の武将。
橘広相の次男の橘公材の九代後の子孫。
右馬允。
父は橘公光(公重)、子に橘公忠、橘公業。
弓馬と知謀に優れていた。
元々平知盛の家人であったが、治承4年(1180年)12月に平家を見限り、同僚であった加々美長清の仲介で源頼朝の麾下に入る。
『吾妻鏡』12月19日条によると、粟田口で当時源為義の家人であった斎藤実盛と片切景重と喧嘩になった時、為義が朝廷に訴えず斎藤・片切を諫めた。
この事から、公長は源家への恩を忘れず、縁者を訪ねて遠江国に下向し、鎌倉へ向かったという。
「京に馴るるの輩」という事で頼朝に重用され、元暦元年(1184年)、平頼盛の帰洛にあたって餞別の宴に同席した。
その後源義経の下で戦った。
元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦い後、捕虜となった平家の総帥・平宗盛の処刑を担当し、その事と平重衡の最期について鎌倉の頼朝に報告した。
『平家物語』「大臣殿被斬」によると、世の人々は公長がかつて平家の家人であったことを忘れず、その変わり身に多くの批判を浴びせたという。
子孫は肥前国に広がり、次男の公業が一時所領とした小鹿島(現秋田県男鹿市)の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。