正親町三条公積 (OGIMACHISANJO Kintsumu)
正親町三条公積(おおぎまちさんじょう きんつむ、享保6年9月3日 (旧暦)(1721年10月23日)‐安永6年6月2日 (旧暦)(1777年7月6日))は、江戸時代中期の公卿。
主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたり仕えた廷臣。
最終官位は従二位大権納言(薨去後従一位追贈)。
父は右近衛中将正親町三条実彦。
母は不詳。
室は権大納言三条西公福の娘。
子息に権中納言正親町三条実同、権大納言花園実章。
娘に正親町三条周子(皇后欣子内親王付き女房)
享保10年(1725年)に叙爵。
以降累進して、侍従・左近衛少将・春宮権亮・左近衛中将をへて、寛保3年(1743年)に参議となり、公卿に列する。
延享2年(1745年)に参議を辞した。
権中納言・踏歌節会外弁・太宰権帥をへて、宝暦4年(1754年)に権大納言となる。
しかし宝暦8年(1758年)幕府による弾圧事件「宝暦事件」に連座して蟄居せざるを得なくなった。
桃園天皇も公積を側近として重用していたが、この事件後、幕府の圧力で官職を止めざるを得なくなった。
さらに宝暦10年(1760年)には出家させられており、薨去まで完全に朝廷から切り離された。
しかし徳川幕府崩壊後、他の同事件連座者たちと同様公積も晴れて名誉回復。
明治天皇からも勤王の功績を認められ、従一位が追贈された。