正親町三条実愛 (OGIMACHISANJO Sanenaru)
正親町三条 実愛(おおぎまちさんじょう さねなる、文政3年10月30日 (旧暦)(1820年12月5日)- 明治42年(1909年)10月20日)は、江戸時代後期から幕末の公卿、明治時代の政治家。
従一位大納言。
父は正親町三条実義、母は松本藩主・松平光年の娘。
子は嵯峨公勝。
号に成翁・子成・真成・叟。
来歴
仁孝天皇・孝明天皇・明治天皇の三帝に仕える。
文政5年(1822年)に叙爵。
以降累進して、侍従・近衛府・近衛府・新清和院別当・奉幣使次官。
嘉元元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列する。
丹波国・中納言・踏歌節会外弁・衛門府などを歴任した。
安政5年(1858年)、幕府が朝廷に対して通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。
これによって井伊直弼による「安政の大獄」に連座する。
安政6年(1859年)、大納言。
万延元年(1860年)に議奏、文久2年(1862年)に国事御用掛に就任。
しかし、薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、尊皇攘夷派の志士から敵視された。
結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。
同年の8月18日の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷をリードした。
明治元年(1868年)、新政府の議定、明治2年(1869年)には刑部省に就任。
その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。
明治3年(1871年)、嵯峨に改姓。
明治13年(1880年)、勲一等旭日大綬章。
明治16年(1883年)には、滋宮韶子内親王・大正天皇の御用掛を拝命した。
明治42年(1909年)、90歳で薨去。
備考
安政2年(1855年)の孝明天皇遷幸の際、馬副6名・舎人2名・副舎人1名・雑色6名・居飼1名・傘1名を随えて供奉している。
「討幕の密勅」を薩摩藩に伝達する役割を担っている。
一説に孝明天皇は暗殺されたのであり、共謀実行者は実愛と岩倉具視とするものもある。
しかしながら、原口清の『孝明天皇は毒殺されたのか』によると、死因が天然痘であることは病理学的にも明白である。
この著作の登場以降は否定が通説である。