武田信玄 (TAKEDA Shingen)
武田 晴信/武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代 (日本)の武将、甲斐国の守護大名・戦国大名。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる武田氏第19代当主。
諱は晴信。
「信玄」とは(出家後の)戒名。
大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。
先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃国に侵攻する。
その過程で対立した越後国の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定する。
甲斐本国に加え信濃、駿河国、西上野国、遠江国、三河国と美濃国の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。
晩年、上洛の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透した。
風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。
現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人である。
出生から甲斐守護継承まで
大永元年(1521年)11月3日 (旧暦)、甲斐国守護武田信虎の嫡長子として誕生。
母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井の方。
父・信虎期は一族や国人領主を制圧して甲斐統一が達成された。
甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町が整備され戦国大名としての地位が確立された時期にあたる。
生誕地は武田氏館の背後にあたる要害山城(または積翠寺)である。
『高白斎記』によれば信玄が誕生した大永元年(1521年)には駿河国今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢が甲府に迫おり、大井夫人は要害山へ退いていたといわれ、武田方は荒川幡(甲府市)において今川方を撃退する。
信玄の幼名は確実な史料では「太郎」である。
『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』)によればこのときの勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。
信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もうまれた。
『軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。
このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。
別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曽我五郎が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。
大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。
『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代を徐々に疎むようになったと言う。
傅役は不明だが、『軍鑑』では板垣信方が傅役であった可能性を示している。
信虎後期には今川氏との和睦が成立した。
関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
『勝山記』によれば、天文2年(1533年)に武蔵国川越城主上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられている。
これは政略結婚であると考えられているが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。
しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去した。
天文5年(1536年)に元服し、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める(『高白斎記』による、「信」は武田氏の通字)。
官位は従五位下・大膳職に叙位・任官される。
元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条の方を迎えている。
この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦した。
この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。
なお、『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としている。
しかしながら、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めていた。
武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。
『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平合戦にも参加している。
『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家第19代家督を相続する。
この信虎追放には『勝山記』や向嶽寺など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因とする説から、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。
『軍鑑』では追放の原因を不和としている。
晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文 (元号)7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。
信濃国を平定
父・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重 (戦国時代)、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してくるが、晴信はこれを撃退した。
そして天文11年(1542年)6月、晴信は逆に諏訪領内への侵攻を目論むようになる。
折しも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていた。
晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定した。
続いて同年10月、諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で破った。
天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。
天文14年(1545年)4月、上伊奈の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。
天文16年(1547年)、志賀城の笠原清繁を攻める。
このとき、笠原軍には上野国の上杉憲政の援軍も加わったため苦戦した。
8月6日 (旧暦)の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。
ところがこのとき、晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の敵兵の首級を城のまわりに打ち立てて城方への脅しとした。
結果、城兵は篭城を解かず笠原清繁始め城兵の多くが討ち死、さらに残った女子供と奉公の男は人質・奴隷にするなど過酷な処分を下した。
この事件が信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となったと言われている。
同年、分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定める。
天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。
しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失った。
晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉 (山梨県)で30日間の湯治をした。
この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来る。
晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝した。
天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。
これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。
こうして、中信は武田の支配下に落ちた。
勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である戸石城を攻める。
しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。
横田高松や小山田信有 (出羽守)らを初めとする1,000人以上の将兵を失った。
しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となった。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。
こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。
後に、信濃守護となる。
川中島の戦い
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた上杉謙信(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始した。
以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
このときは晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こす。
晴信はこれを直ちに鎮圧した。
信玄は信濃進出に際して敵対していた駿河今川氏と相模北条氏の和睦を進めていた。
天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘を迎え、甲駿同盟を強化する。
また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。
今川と北条も信玄が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。
三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は相互に出兵し軍事同盟として機能した。
弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。
これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。
また、この頃には出家しており、翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。
信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかった。
永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。
両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われる。
武田方でも信玄の弟・武田信繁をはじめ諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失ったという。
第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落した。
以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。
永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。
今川・北条との戦い
川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けた。
上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。
しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻めた。
永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。
永禄3年(1560年)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた。
このことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。
このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画する。
義元の女婿である嫡男・武田義信とその傅役・飯富虎昌が激しく反対する。
信玄は永禄8年(1565年)に飯富虎昌を切腹させた。
永禄10年(1567年)10月には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ(病死説もあり)。
その上で、永禄11年(1568年)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。
今川軍も抵抗したが、松野山で荻清誉を、薩垂山で今川氏真軍を破り今川館へ入った。
しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が今川氏の援軍に駆けつけ、大軍をもって薩垂山を封鎖。
両軍は睨み合いとなったが、輸送部隊を襲われたことにより物資が不足、甲駿国境に位置する大宮城での苦戦、さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対した。
このため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年(1569年)興津城に穴山信君を抑えに残し、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退した。
同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵国・相模国に侵攻する。
10月1日 (旧暦)には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日 (旧暦)には早くも包囲を解いた。
北条は北条氏照・北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させた。
小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取った。
10月8日 (旧暦)、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突した。
序盤は北条軍優位であったが、山県昌景の高所からの奇襲が成功し戦局は一変した。
北条本隊が到着する前に敵陣を突破し窮地を脱した。
(三増峠の戦い)。
北条軍はこの合戦で受けた損害を埋めるために駿河から軍勢を呼び戻したという説もある。
この合戦の頃から、北条氏康は病を得ていたようで、北条家は本国の防衛に重きを置くこととなった。
越相同盟が完全に機能せず、武田と佐竹、里見の同盟が成立し、関東の防備に不安を覚えた。
このこともその理由とされる。
こうして北条軍の駿河守備は手薄となった。
元亀元年(1570年)7月、満を持して再び駿河に侵攻した。
北条の守備隊を撃破し完全に平定するに至る。
遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復
永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。
ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。
信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。
信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。
元亀2年(1571年)10月3日 (旧暦)、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去した。
後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日 (旧暦)には信玄と甲相同盟を回復するに至った。
この時点で武田家の領土は、甲斐国一国のほか、信濃国、駿河国、上野国西部、遠江国・三河国・飛騨国・越中国の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。
西上作戦
永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。
その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である信松尼の婚約が成立している。
徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。
元亀2年(1571年)、信長のよる比叡山焼き討ち (1571年)に遭い亡命してきた天台座主の覚恕を保護する。
法親王の計らいにより信玄は権僧正の位を与えられた。
元亀3年(1572年)10月3日 (旧暦)、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。
約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。
信玄率いる本隊は10月13日 (旧暦)、只来城、天方城、一宮城 (遠江国)、飯田城(遠江国)、各和城、向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。
山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。
秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。
これに対して、信長は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。
家康は10月14日 (旧暦)、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。
12月19日 (旧暦)には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣した。
遠江三方ヶ原において、12月22日 (旧暦)に信玄と一大決戦を挑む。
しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。
このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。
しかしここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。
信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。
信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年した。
元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日 (旧暦)には野田城 (三河国)を落とした(野田城の戦い)。
信玄の死と遺言
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化した。
武田軍の進撃は突如として停止する。
このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならなかった。
4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。
4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。
臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。
戒名は法性院機山信玄。
菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残した。
重臣の山県昌景や馬場信房、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれている(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)。
信憑性に関しては軍鑑作者と言われる高坂昌信(春日虎綱)の意思が介在していることが指摘されている(柴辻俊六による)一方で、同時代史料で確認できるものある。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。
駒場の長岳寺や甲府岩窪の円光院などには信玄の火葬地とする伝承がある。
円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたと言われ、死の直後に火葬して遺骸を保管していたと考えられている。
葬儀は、『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる天正3年(1575年)4月12日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったという。
上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行った」としている。
しかし、この記事を天正4年(1576年)の本葬の誤記であるとする説もある。
家臣団と制度
武田家臣団を制度的に分類する事は研究者の間でも意外と難しいとされる。
武田家が守護から戦国大名になったと言う経緯から、中世的な部分が残る一方、時代に合わせて改変していった制度もある。
部分部分で鎌倉室町前期の影響と室町後期の時代の影響の両方がやや混然と存在しているためである。
家臣団を大きく分けると以下のように分けられる。
1. 武田親族衆
信玄の兄弟・親族らが中心。
『甲斐国志』には「国主の兄弟から出て一家を立てた」者とされる。
このため一条家など、別姓もありえる。
また、木曽氏のような婚姻関係の結果親族衆に含まれる場合も含まれる。
2. 譜代家臣団
基本的には甲斐一国当時から武田家に仕えていた家を中心とした家臣団。
ただし、春日虎綱(高坂昌信)のように武田信玄の代に侍大将に抜擢された家なども含まれる。
このため、代々仕えていたと言う点が基準となるわけではない。
逆に甲州に領地を持っていながら譜代と扱われていない例もある。
4. その他の項を参照。
3. 外様家臣団
同時代には外様と言う表現は使われていないが、現代では便宜的にこのように言われる。
1及び2に含まれない家臣団。
当時は諏訪衆・上野衆と言った地域名、あるいは真田衆と言った領主名で呼ばれていた。
武田海軍である海賊衆もここに含まれる。
4. その他(地域武士団)
武川衆のように甲斐国内に存在した集団でありながら、親族とも譜代とも判別し難いのみならず、武田氏に服属していたのか同盟関係に近かったのかの判断が困難なグループがある。
多くは中世の本家分家的な関係を基礎としており、一定地域での独自色の強い集団であった。
これらの集団と武田氏との関係の研究は現在も続けられている。
現代ではこのように分ける例が多い。
しかし、『壬午起請文』では譜代家臣団の中に入るべき人物が「武田親族衆」とされている部分もある。
これらについて服部治則は「非血縁分家」と言う表現で武田家との関係の深度によるのではないかとしている。
職制は行政面と軍政面で分けられる。
行政面では「職」と呼ばれる役職を頂点にした機関が存在した。
ただし、武田氏は中央集権的な制度ではなかったため、在地領主(いわゆる国人)の領地に対しては直接指示を下せるわけではなかった。
特に穴山・小山田両氏の領地は国人領主と言えるほどの独自性を維持している。
信玄の初期は国人による集団指導体制の議長的な役割が強かった。
知行制による家臣団が確立されるのは治世も後半の事である。
構造的には原則として以下のようになっていたとされる。
ただし、任命されていた人物の名が記されていない場合もあり、完全なシステムとしてこのように運営されていたわけではないようである。
また、領地の拡大や知行制の浸透に伴い、これらの制度も変遷を行った様子が伺える。
行政
職…行政面での最高責任者
二人任命されていたので両職とも呼ばれる。
公事奉行…公事と訴訟を担当する。
ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではない。
下部で収まらなかった訴訟を審議した。
後述。
勘定奉行…財政担当官。
蔵前衆…地方代官。
同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。
侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。
足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。
浪人頭…諸国からの浪人を統率する。
軍政
旗本武者奉行…弓矢指南とされる。
最上位に記される事から出陣の儀や勝ちどきの儀などの責任者か。
旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。
鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。
旗本親衛隊の統率者か。
使番衆…百足の旗を背負う伝令役。
使番と奥使番に分けられる。
奥近衆…奥近衆小姓とも記される。
基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。
諸国使番衆…諸国への使者を務める。
海賊衆…海軍。
御伽衆…御話衆とも。
側近。
新衆…工兵集団。
架橋や陣小屋作成など。
行政・軍政とも職の下に位置し、武田氏の下部組織を勤める。
竜朱印状奏者はこれらの制度上の地位とは別である。
また、占領地の郡代など、限定的ながら独自裁量権を持つ地位も存在する。
なお郡代という表現そのものも信濃攻略時には多く見られる。
駿河侵攻時にはあまり見られなくなっており、城主や城代がその役目を行うようになった。
武田の行政機構が領地の拡大にあわせて変化していった一例であろう。
軍事制度としては寄親寄子制であった事がはっきりしている。
基本的には武田氏に直属する寄親と、寄親に付随する寄子の関係である。
ただし、武田関連資料ではこの寄子に関して「同心衆」と言う表現をされる場所がある。
このため、直臣陪臣制と誤解される事も多く、注意が必要である。
また、地域武士団は血縁関係によって結びついた甲州内に存続する独自集団であり、指揮系統的には武田氏直属であったと考えられている。
集団が丸ごと親族衆の下に同心の様に配されている場合もあり、必ずしも一定していない。
地域武士団の前者の例は先述の武川衆、後者の例は小山田氏に配属されていた九一色衆が上げられる。
寄親とされているのは親族衆と譜代家臣団・外様家臣団の一部。
譜代家臣団でありながら同心(寄子)である家もあるため、譜代家臣団が必ず寄親のような大部隊指揮官という訳ではない。
また、俗に言う武田二十四将の中にも同心格である家もあり、知名度とも関係はない。
それどころか侍大将とされている人物でも寄親の下に配されている場合もある。
かなり大きな権限を持っていたと考えられている。
全体としては大きな領地を持っている一族である例が多く、地主的な発言権とは不可分であるようである。
また、一方面指揮官(北信濃の春日虎綱や上野の内藤昌豊など)のように、領地とは別に大軍を指揮統率する権限を有している場合もある。
寄子は制度的には最も数が多くなる。
譜代家臣団・外様家臣団の大部分である。
平時には名主として領地を有し、居住する地域や領地の中に「又被官(武田氏から見た表現。被官の被官と言う意味)」と記される直属の部下を持つ。
寄親一人の下に複数の寄子が配属され、一軍団を形成する。
武田関係の資料では先述したように「同心衆」と記される。
「甘利同心衆」と言うように責任者名+同心の書き方をされる例が多い。
ただしこの名前が記されている人物も寄子である場合もある。
言葉そのものが状況によって使い分けられていたようである。
この複雑さを示す例として「信玄の被官」であり板垣信方の「同心」を命じられた曲淵吉景が挙げられる。
信玄の被官と言う事は信玄直属である。
制度面で正確に言えば寄子としては扱われないはずであるが、信方の同心である以上は寄子として扱われている。
信玄の被官である以上、知行は信玄から与えられる一方、合戦時の指示は信方から与えられる、と言う事になる。
この例の曲淵は他者の同心であるが、信玄直属の同心と言える立場の人物ももちろん存在していた。
もっとも現代のように一字一句にこだわった表現が当時されていたかどうかは判断が難しい。
軍役帳などの場合、「被官〜氏」「同心〜氏」であれば信玄直属の被官、「〜氏同心××氏」でれば誰かの又被官と、前後の書かれ方で意味が通じるからである。
現代発行される書籍などで単語だけ取り出す事によって混乱が助長されている面は否定できない。
また、『中尾之郷軍役衆名前帳』には同じ郷から出征する人物が複数の寄親に配属されている場合があり、複数の郷に領地を持っている人物が寄子同心が存在する。
一概に一地方=一人物の指揮下と断定する事もできない。
これもまた制度研究を困難にさせている要因の一つである。
なお、裁判面では寄親寄子制が基幹となっている。
甲州法度之次第では内容にかかわらず寄子はまず寄親に訴え出る事が規定されている。
寄親が対処できない場合のみ信玄の下に持ち込まれることになっていた。
これは一方で兵農未分離の証左とも言える。
信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。
また、信玄が寵愛する衆道相手の春日源介(後の高坂昌信)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年))武田晴信誓詞、ともに東京大学資料編纂所所蔵)が現存している。
家臣との交友関係などを示す史料となっている。
領国統治
信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立した。
在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。
武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった
この為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原の新田開発を精力的に実施した。
代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行われた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。
日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。
甲斐には黒川金山や湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在した。
南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。
また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。
ただし、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられなかった。
金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。
寺社政策では寺領の安堵や寄進、守護不入など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行った。
一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。
信玄は自身も仏教信仰を持っていた。
領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。
特に臨済宗の恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への善光寺の移転勧請などが知られる。
駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力した。
元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮造酒丞(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正勝(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、間宮忠兵衛(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。
人物
仏教の信仰は篤かったと言われている。
しかし、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいるなど 仏教に背く行為がみられた。
このことに関して信憑性は今ひとつである『甲陽軍鑑』(元々信玄本人が著したのではないのと、成立が江戸初期という事で、徳川幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述がある。
当時信玄が熱心に勉強していた『碧巌録』の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、導師岐秀元伯に次のように言われた。
「あなたはこれ以上する必要はありません。」
「武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか。」
信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。
当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧侶は繋がりが深く、多くの武士が出家している。
しかし、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていない。
当時の有力寺社には僧兵、神人と呼ばれる武装した下級の僧侶、神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落していた。
俗世に関わり武装闘争をも辞さなかった。
信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等の宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされる。
『甲陽軍鑑』の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られる。
また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。
このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言える。
このように、形骸化したとはいえ本来あってはならない僧侶の婚姻を推し進めたり、信者を使って一揆を誘発したりしていたことから少なくとも純粋な信徒ではなかったようである。
肖像画
信玄の肖像画は同時代のものが複数存在する。
和歌山県の持明院所蔵の「絹本著色武田晴信画像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」(重要文化財)が知られる。
前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれている。
直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。
後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画である。
壮年期のふっくらとした姿で頭部には髻があり、足利将軍家家紋「二引両紋」のある太刀が描かれている。
三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日堯上人像」と同時期に描かれている。
同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。
江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、赤法衣と諏訪法性の兜に象徴される法師武者姿としてのイメージが確立した。
狩野探信や柳沢吉里により描かれた信玄個人の肖像画や武田二十四将図、浮世絵などにおいて定着した。
また、明治後半には成慶院所蔵の肖像画が「武田信玄像」として紹介されると大正から昭和初期にかけて定着した。
甲府駅前や塩山駅前にある銅像のモデルにもなっており、歴史教科書においても採用されていたため信玄の一般的なイメージとなっている。
近年は、39歳で出家し剃髪したにもかかわらず、後鬢が残されている。
服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。
(持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
右側に止まっている鳥は、能登の鳥である。
絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いない。
しかし、この時期能登から出た形跡が無いこと。などの疑問点から、畠山義続ではないかという学説が出ている(藤本正行『武田信玄像の謎』)。
成慶院画像も等伯作であることが揺るがないことから、依然として像主を信玄に比定することは支持されている。
しかし、最近の教科書では「絹本著色武田信玄画像」は使われておらず、「持明院蔵」の肖像画が使用されている。
現在、NHKやフジテレビでは「絹本著色武田信玄画像」を使用しないなどの傾向も見られる。
また、東京都の浄真寺に所蔵されている吉良頼康画像を信玄画像とする説も提唱されている(藤本による)。
名言
「人は城、人は石垣、人は堀。」
「情けは味方、仇は敵なり」
(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)
この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。
ただし、後背には詰めの城である要害山(積翠寺)城があり典型的な戦国武将の山城ともいえる。
「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。」
「その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。」
「たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。」
「すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。
信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めである。
そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。
「為せば成る、為さねば成らぬ。」
「成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」
(現在では米沢藩主・上杉鷹山の言葉としての「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の方が良く知られているが元々は信玄の言葉である)
風林火山
風林火山は、孫子 (書物)に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し)」(孫子ではこの後に「難知如陰 動如雷霆 (知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい=雷)の如し)」と続く)という語句を略したものである。
信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。
また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わる。
武田神社に現物が収蔵されている。
ただし、武田信玄が使ったことで有名ではあるが、信玄が最初と言うわけではない。
風林火山の旗印は信玄より200年ほど前の南北朝時代に北畠顕家が陣旗として使っていた。
とは言え一般的には武田信玄=風林火山と言う印象は強く、その名を冠した作品は多い。
逸話
信玄は鉄砲も重視していた。
天文24年(1555年)の段階で鉄砲を300挺以上も所有していたと言われる。
勝山記の天文24年の項に「旭の要害(旭山城)へも武田晴信(武田信玄)公人数三千人(中略)鉄砲三百挺入候」とある。
武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。
躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。
躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みである。
信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。
信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。
家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。
トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。
信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものであった。
その丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。
信玄は初め上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを10月3日まで先延ばした。
これは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている。
信玄は情報収集を重要視していた。
「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行わせたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。
また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませた。
表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。
信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている。
このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていた。
このことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称された。
しかし、甲陽軍鑑の歴史資料としての信憑性は他の資料との比較から疑問視されており、この様な事を本当に行っていたかどうかは疑問である。
上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。
「遠州・三河・美濃・尾張国へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」
元亀2年(1570年)の織田信長による延暦寺比叡山焼き討ち (1571年)の際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。
このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。
また、その大僧正の身分をわざわざ書いた宣戦布告ともいえる文を信長に送っている。
ちなみにこれは前述にもあるが本来あってはならないことである。
信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だったため、上洛は難しいとされていたと言われる。
実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。
信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である新撰犬筑波集では、次のように揶揄する句が記されている。
「都より甲斐への国へは程遠し。」
「おいそぎあれや日は武田殿。」
信玄は生涯で同盟を破った事は多く、諏訪、織田、今川、徳川(結果的には北条)などがあげられる。
そのため外交における信用がほとんどなかった。
勝頼の代となって上杉と同盟を結ぶ際にその事を指摘されている。
信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかった。
これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。
長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転した。
このため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。
男色(衆道)関係にあったとされる高坂昌信に宛てた恋文/起請文が残っている。
死因
死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦国遺文2638号)にみられる持病の労咳(肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃癌若しくは食道癌による病死説が有力である。
藩翰譜;新井白石著の菅沼氏の項で、武田信玄が、三河国野田城を攻囲中、城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを、鉄砲に狙撃され負傷したという俗説があると記載されている。
甲陽軍鑑には、そのような記述はないという。
また、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病による体力の低下という説もある。
また、織田信長にヒ素で毒殺されたとする説もある。
父の追放について
近年、信玄は老臣の操り人形で、父追放は甲斐の有力国人衆のクーデターだという説がある。
その理由に、信玄が16歳にて初陣に出たと言う輝かしい日に、駒井政武は日記に、今川家の家督争いを書いている。
なお学会の見解としては20歳にて初陣に出たという意見で一致している。
これは戦国大名としては遅すぎるので、このような説が出たと思われる。
また、板垣信方が主君の意向を無視した行動をたびたび起こしていることもこの説の信憑性を強めている。
このことから信玄の支配確立は上田原の戦い以降だと述べる識者もいる。
武田菱
武田菱は、甲州武田家の家紋である。
菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。
旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。
また山梨県警機動隊の車両などの装備品や、東日本旅客鉄道の特急「あずさ (列車)」や「かいじ (列車)」に使われるE257系のデザインにも用いられている。
なお、皇居で行われる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇や皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在する。
これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。
また、広島県立祇園北高等学校は、校舎が武田氏の傍流安芸武田氏の居城佐東銀山城のあった武田山の麓に立地していることにちなみ、校章には武田菱があしらわれている。
後世への影響
武田家は勝頼の代で滅亡しているが武田家の遺臣は徳川氏によって保護された。
武田遺臣のなかには幕府に仕えて活躍したものもいる。
また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち特権を保持していた武田浪人が存在していた。
江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになった。
信玄の名は広く知られることになった。
原典は江戸時代に作られた浮世絵や浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しない。
選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えたことはない。
庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが異なる。
なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的である。
しかし、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。
他に武田四天王(武田四名臣とも。信玄・勝頼を支えた馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信の4人を指す)も有名。
徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は『家康公を苦しめ、人間として成長させた武神』として、また信玄の手法を家康が参考にしたことから、『信玄の神格化=家康の神格化』となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。
江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立した。
これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。
また、一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。
明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになった。
戦前は内務省 (日本)が武田神社の別格官弊社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあった。
郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。
戦後は、英雄史観や皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになった。
昭和62年には武田氏研究会が発足した。
磯貝正義、上野晴朗、笹本正治、柴辻俊六、平山優、秋山敬らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行っている。
戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になった。
観光事業振興の動きの中で信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物として位置付けられた。
信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されている。
また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。