武田信虎 (TAKEDA Nobutora)

武田 信虎(たけだ のぶとら)は、戦国時代 (日本)の武将。
甲斐国の守護大名・戦国大名。
武田信玄の父。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一流・河内源氏の傍系・甲斐源氏の宗家・武田氏。
武田氏第18代当主にあたる。

家督相続から国内統一

明応3年(1494年)1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる。
永正4年(1507年)、父の病死により14歳で家督を継ぐと、永正5年(1508年)には対立していた叔父の武田信恵を坊峰合戦(笛吹市、旧東八代郡境川村)で滅ぼした。
永正7年(1510年)には甲斐東部の郡内地方に勢力を誇っていた小山田氏を征圧した。
小山田信有 (越中守)に実妹を嫁がせて講和し、郡内へ近い勝沼には実弟信友を配した。
永正12年(1515年)から永正14年にかけて駿河国の今川氏に支援された西郡の国人領主大井氏の本拠上野城(南アルプス市、旧中巨摩郡櫛形町)を攻めた(大井合戦)。
永正14年(1517年)には一時今川氏と和睦し、永正17年(1520年)には征圧した大井氏と同盟して大井信達の娘を室に迎える。

また、永正16年(1519年)にはそれまでの武田氏歴代の居館であった石和(笛吹市、旧石和町)より西の甲府へ移った。
はじめ川田に館を置き、のちに府中(現在の甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町(武田城下町)を整備し、家臣を集住させた(『高白斎記』)。

その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏と争う。
大永元年(1521年)には駿河の今川氏配下の土方城主福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦(甲府市飯田町)、上条河原合戦(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)で撃退する。
この最中に、要害城では嫡男武田信玄が産まれている(『高白斎記』・『王代記』)。

大永年間には対外勢力との抗争が本格化し、大永4年(1524年)には、関東における両上杉氏と新興勢力の北条氏の争いに介入し、都留郡の甲相国境付近では相模国境で北条勢と争った。
大永6年には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。
翌大永7年には佐久郡出兵を行い、同年には駿河の今川氏親と和睦する。

翌享禄元年(1528年)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。
享禄4年(1531年)には諏訪氏の後援を得て甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗するが、信虎は今井信業・尾張守らを撃破し、同年4月には河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破した。
また、享禄3年(1530年)には上杉朝興の斡旋で上杉憲房の後室を側室とする。

天文 (元号)4年(1535年)には今川攻めを行い、国境の万沢(南巨摩郡富沢町)で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。
同年には諏訪氏と和睦している

翌天文5年には駿河で今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(のちの今川義元)を支援したことにより今川氏との関係は好転する。
天文6年(1537年)には長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男晴信の室に公家三条家の娘を迎えた。
今川氏とは和睦して甲駿同盟を結ぶ。
さらに北条氏とも和睦するが、甲駿同盟は駿相同盟の破綻を招き、今川と北条は抗争状態となる(河東の乱)。
天文9年(1540年)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる。
諏訪氏とは諏訪頼満の孫諏訪頼重 (戦国時代)の時代になると和睦し、三女・禰々を頼重に嫁がせて和睦する。

天文10年(1541年)には小県郡侵攻を行い、諏訪氏や村上義清と連合して海野平の戦いで滋野一族を駆逐している。
その後は東信濃の佐久郡や小県郡に進出し、甲斐国外にも勢力を拡大した。

追放

天文10年(1541年)6月14日、信虎は信濃から凱旋すると、娘婿の今川義元と会うために駿河に赴いた。
しかし板垣信方、甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ、駿河に追放された。
信虎を追放した晴信は、武田家家督と守護職を相続する。

事件の経過は『勝山記』『高白斎記』などに拠り、事件の背景には諸説ある。
信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の武田信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説がある。
晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。
また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。

放浪

その後、今川義元の庇護を受けて駿河で暮らした。
天文12年(1543年)には上洛し、高野山参詣や奈良見物をするなど、きままに楽しんでいる様子がうかがえる。

しかし天文19年(1550年)には今川義元の室になっている娘が他界し、今川家に居づらくなってしまい駿河を出る事になる。
伊勢の北畠具教に一時期寄食し、軍師的な役割をこなして海賊退治をした事もあったと言われるが定かではない。

その朝廷と関係の深かった具教の後援を受けて京都に上り、信玄の正室・三条の方の縁故もあって三条実綱(三条の方の兄)の庇護を受けて五条に住んだ。
このとき、当時の有力者との親交を深めている。
特に足利義輝は、戦国時代になり希有な存在となった在京守護として信虎を遇した。
また、信玄も信虎の生活費用などを工面し、送金していたと言われている。

永禄8年(1565年)、永禄の変により足利義輝が松永久秀に討たれる。
この際の信虎の動向は不明だが、永禄11年(1568年)に足利義昭が織田信長に奉じられて上洛すると、当時の織田信長は武田とも同盟関係にある事から、信虎も義昭に伺候する事となる。

元亀4年(1573年)には足利義昭が織田信長に放逐された。
またその信長も武田家とは既に敵対関係にあり、京周辺に居場所がなくなる。
そのため再び武田領に戻る事となる。

最期

武田領に戻った信虎は、三男・武田信廉の居城・高遠城に身を寄せる。
天正2年(1574年)3月5日、伊那の娘婿・禰津神平の庇護のもと、信濃高遠で死去した。
享年81。
葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われた。

一説には、勝頼と対面した時に信虎が、居並ぶ群臣の前で突然抜刀した。
80歳とは思えぬ太刀裁きで素振りを披露した。
勝頼への与力と甲斐への帰還を申し出たという。
しかし、信虎時代を知る老臣たちは慄き、勝頼に信虎の甲斐入りに強く反対したという。
勝頼も無用の混乱を避けるべく、その意見を受け入れ、叔父・信廉に信虎を預けたと言われる。

人物

敵対した人物は勿論のこと謀反を起こした人物についても降伏すれば許すことが多かったといわれる。
しかし、信虎統治の初期においては人材が不足していたため殺したくても殺せなかったとの見方もある。

戦術家としては卓越しており、戦上手として知られる織田信秀や斎藤道三と比較しても引けを取らない。
特に、大永2年に今川氏の武将福島正成が1万5千を率いて甲斐に侵攻してきたとき、信虎の兵力は2千に満たなかったが、本陣に奇襲を仕掛けて打ち破り正成の首をあげる大勝利を挙げている(福島乱入事件)。
この戦いは規模・経過ともに桶狭間の戦いに類似しており、織田信長はこの戦いを手本に桶狭間の作戦を立てたともいわれている。

江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったという。
諫言した家臣をたびたび手打ちにする、妊婦の腹を生きたまま裂く等の悪行も伝えられている。
内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われる(信虎に殺されて絶えた名跡の多くを、子の信玄が復活させている。内藤氏→内藤昌豊、馬場氏→馬場信春、山県氏→山県昌景)。
しかし有力な親族・家臣の殺害は、戦国大名が中央集権化をはかる際に広く行われたことであり、織田信長や豊臣秀吉などの場合と違い家臣の整理に最終的には失敗したため否定的な評価につながったという面がある。
「妊婦の腹を生きたまま裂く」などというのは古代中国史書にもある当時の知識階級なら誰でも知っていた古典的な暴君伝説であり、信憑性は確かめようがない。

甲斐を統一し、武田家を守護大名から戦国大名へと脱皮させ強力な中央集権化を断行した。
晴信(信玄)による信虎追放のクーデターは、その中央集権化に反発した国人衆主導によるものであった。
武田家は国人の連合盟主のような存在であり、信玄の時代になっても合議制を採用していたのがその証左と言える。

諸国から有能な浪人衆を招き足軽大将とした(小幡、多田、原美濃等の俗に言う武田の五名臣他)。
また、後の武田家を支える春日虎綱(後の高坂昌信)・教来石民部(後の馬場信春)らの部将も信虎により抜擢されたと思われる。

嫡男・晴信(信玄)に公家の三条公頼の娘を迎え、婚姻政策を展開して今川氏などの近隣勢力と同盟を結ぶなど、積極的な外交政策をとった。
この婚姻により晴信と本願寺顕如が義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となり、後の武田家の外交政策にも影響を及ぼした。

息子の武田信廉によって描かれた信虎の肖像画が現存しており、異様とも言われる信虎の風貌を現在に伝えている。
晴信以外の息子との関係は良かったとも推測されている。

名刀「宗三左文字」を所有しており、今川義元に伝わる。
桶狭間の戦い後に織田信長に渡ったが、本能寺の変により焼失した。
後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、豊臣秀頼より徳川家康に伝わり現在に至る。

[English Translation]