武田有義 (TAKEDA Ariyoshi)

武田 有義(たけだ ありよし、生年不詳 - 正治2年(1200年)?)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
清和源氏源義光流、甲斐源氏の棟梁・武田信義の四男(あるいは長男、三男)。
武田太郎と称す。
兄弟に一条忠頼、板垣兼信、武田信光らがある。
中宮職、左兵衛尉。

治承4年(1180年)の治承・寿永の乱に際して甲斐源氏も蜂起し、その中で同年12月24日に有義の妻子が都で何者かに殺害され、獄門される事件が起きている。
近江攻防などで近江源氏と連携していた甲斐源氏に対する平氏かそれに近い勢力による報復行動と考えられる。
のちに一族とともに源頼朝の麾下に参加する。
しかし、甲斐源氏の勢威拡大を恐れる頼朝からの圧迫の中、兄弟の忠頼は誅殺され、兼信は配流され失脚する。
彼らの後を受け一族の中心的存在となった有義であったが、文治4年(1188年)、鶴岡八幡宮における大般若経の供養の式の場において、頼朝によって面罵され面目を失うと、その後は求心力を失ったという。

降って正治2年(1200年)、頼朝の死後における梶原景時の変に際して、梶原景時と同心したという嫌疑をかけられた。
そして、本拠地の甲斐国から逐電、永久にその地位を失った。
『系図纂要』によると同年死去したとされるが、その詳細は明らかではない。

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