武田観柳斎 (TAKEDA Kanryusai)
武田 観柳斎(たけだ かんりゅうさい、天保元年(1830年)頃 - 慶応三年6月22日 (旧暦)(1867年7月23日))は、出雲国母里出身の新選組隊士。
五番隊組長、兵学・文学師範、軍事方(軍奉行)。
本名は福田廣。
徳裕とも。
略歴
脱藩ののち江戸に出向き、甲州流軍学を学ぶ。
甲斐国武田氏にちなみ、「武田観柳斎」を名乗るようになる。
文久3年(1863年)に入隊。
軍学者として近藤勇に重用され、翌元治元年(1864年)には副長助勤として幹部に抜擢。
同年6月5日の池田屋事件の際、武田らは長州藩人などの潜伏浪士に便弁を図っていた古高俊太郎を捕える。
その後近藤隊に属し、池田屋の周囲を固めた。
戦闘時は土佐国浪士・大秋鼎を斬殺し、褒賞金を賜っている。
7月19日の禁門の変では、軍事方として戦略担当幹部となり、天王山攻略などで甲州流軍学を発揮した。
慶応元年(1865年)の組織再編で五番隊組長になる。
隊では甲州流軍学をふるい隊士の訓練を行っていたが、その巧みな弁舌で幹部連中に媚びへつらう姿に嫌悪感を示す隊士も少なくなかったという。
その後、新選組が幕府に準えて洋式調練を取り入れたことにより、武田の軍学は徐々に時代遅れのものとなっていった。
隊内での立場を失った武田は、脱退を図って伊東甲子太郎に接近したり、倒幕派である薩摩藩との接触も企てるなどした。
しかしそれらの行動を近藤や土方歳三らに看破される。
慶応3年(1867年)6月22日、除隊を申し出た武田の送別会と称し、近藤が宴を開いた。
しかしこれは、無論武田暗殺の宴であった。
宴の後、斎藤一、篠原泰之進が武田を送ることになり、伏見薩摩藩邸に共に向かった。
途中鴨川 (淀川水系)銭取橋で斎藤一によって暗殺された。
(この暗殺者には諸説あり、当時斎藤らは御陵衛士に加わっており、暗殺したのは別の隊士の可能性もある)。
後日、加藤羆という隊士が武田観柳斎に同心したとして、切腹させられている。
エピソード
武田は男色家であったという説がある。
「武田が隊中美男五人衆のひとり・馬越三郎を追い掛け回した結果、馬越が土方に除隊を申し出た」という話が伝わっている。
しかし、これは子母澤寛の「新選組物語」に登場するエピソードであり、フィクションとする見方が強い。