武蔵武芝 (MUSASHI no Takeshiba)

武蔵 武芝(むさし の たけしば、生没年不詳)は平安時代中期の豪族。
足立郡郡司武蔵武成の子。
位階は外従五位下。
足立郡郡司判官代と伝えられているので、武蔵国の在庁官人であったとされている。

武蔵氏は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の功労者武蔵不破麻呂(丈部直不破麻呂、延暦6年4月11日_(旧暦)に従四位下で没)の子孫であり、氷川神社を祀る武蔵国造家として、代々足立郡司を勤めていた。
『将門記』では名郡司と評されている。

概説

天慶2年(939年)2月、武蔵国へ新たに赴任した受領興世王と介源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に入ってきたため、武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対。
しかし2人の国司は武芝を無礼であると、財産を没収し、武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。

将門の調停の元に興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。

その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている。
これを国司による処分と見るか、将門に連座して討ち取られたものと見るかについて見解が分かれている。

氷川神社の社伝、系図によれば、武芝の子孫は野与氏を称し、氷川神社の祭祀は武芝の娘の子(武蔵介菅原正好の子という)が受け継いだ。

『西角井系図』では、武芝の娘は秩父氏の祖桓武平氏平良文平将恒の妻となり、孫娘(武芝の子武蔵武宗の娘)は平元宗(平胤宗の子)に嫁ぎ、平基永(野与党の祖)・平頼任(村山党の祖)を設けたとされる。

なお、『更級日記』で著者である菅原孝標女が武蔵国で聞いたとされる「たけしば」寺の伝説は、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説もある。

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