殿内義雄 (TONOUCHI Yoshio)
殿内 義雄(とのうち よしお、天保元年(1830年)~文久3年3月25日 (旧暦)(1863年4月29日))は、江戸時代・幕末の人物。
浪士組の一人。
結城藩士の子、あるいは殿内村(現在の千葉県山武郡)の豪農・土屋忠右衛門の子として生まれた。
江戸(現在の東京)の昌平坂学問所(現在の東京大学に相当。)で学問を究めた。
また、屈強剛権な体格で、剣術の腕にも優れていたという。
文久3年(1863年)、清河八郎発案の浪士組に参加し、役職(目付役)を与えられるが何らかの落ち度で降格。
京(現在の京都市)に上りいざこれからという時に、清河は浪士組を率いて江戸へと帰って攘夷を行おうとした。
それに賛同し、多くの者が清河に付き従った。
また、その動きとは別に、鵜殿鳩翁から、家里次郎と共に浪士組内の壬生村での残留者の取りまとめの責任者の役目を任される。
(殿内と家里は、募集する側の責任者だったので、名簿に記載されていない。)
芹沢鴨・新見錦(田中伊織)・平山五郎・粕谷新五郎・平間重助・野口健司ら水戸藩出身者、阿比類、近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・原田左之助・沖田総司・井上源三郎ら試衛館道場の者、斎藤一・佐伯又三郎ら京で参加したもの、根岸友山・清水吾一ら根岸派が結集する。
最初の壬生浪士の筆頭格であったが、近藤勇に激しく憎まれた(近藤が何らかの憎悪を抱き、殿内を討ち果たした、という書簡が残されている。)せいか殿内自身の資料・伝承に乏しい。
近藤、芹沢、根岸らは、既にそれぞれ派閥を形成していたが、殿内と家里は、江戸幕府の信用で筆頭格になったので、派閥らしいものはなく(のちの粛清の嵐など想像もつかなかったことだろう。)、旧知の根岸らと近かったとされている。
殿内は、自前の派閥を形成するために旅に出ようとする際、近藤らにしこたま酒を飲まされた。
その後、京都四条大橋にて闇討ちに遭い命を落とした(近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に殺害されたという。)。
殿内は、旅支度の姿で刀は袋にしまった状態であったという。
近藤との確執の原因は、諸説あり、殿内自身の人間性に問題があったとするものや、近藤の野心の犠牲者になった第一号、芹沢派による粛清など様々。
殿内が殺害されずに健在ならば、新選組もまた幕末史において違った存在になったであろう。
(殿内の指導力の有無や、それがよいか悪いかは別として。近藤は、芹沢らをも粛清して、より会津藩寄りに特化されてゆく。)
殿内斬殺事件は、橋の上に倒れた殿内の姿を描いた絵として描かれている。
また、殿内を失った家里は、出奔後、大坂(現在の大阪市)で隊士を募っているところを芹沢らに捕らえられ粛清された。
根岸は、殿内死後ほどなく、伊勢神宮参りに行くという理由で壬生村を立ち去る。
(のち根岸は新徴組を経て七十数歳の天寿を全う。)