池田勝正 (IKEDA Katsumasa)
池田 勝正(いけだ かつまさ、天文 (元号)8年(1539年) - 没年不詳)は戦国時代 (日本)から安土桃山時代の武将・大名。
池田氏当主。
八郎三郎。
筑後国守、民部大輔、摂津国守護。
生涯
永禄6年(1563年)、前当主の池田長正の死去によって摂津池田家惣領として家督を継ぐ(長正の子ではなかったが、文武に秀でていたため池田家当主となる。
また一説には長正の嫡男ともいわれ、知正らは脇腹の弟であるとも言われる)。
この頃の池田氏は三好氏の盟友であったが、翌年の三好長慶の死去によって三好氏が弱体化すると、勝正は三好三人衆と組み松永久秀と戦った。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛してくると摂津の他の豪族が降伏していくなか、敢然と抵抗したが、信長の圧倒的な軍事力の前に降服せざるを得なかった。
しかし信長は能力を認め、抵抗に対するお咎めをしないどころか加増の上で領地安堵(「織田武鑑」によると6万石)となった。
信長はこのとき、摂津国の有力豪族である池田氏などを臣下に置いて摂津国支配の安定を図ろうと考え、勝正、伊丹親興、和田惟政の3名に摂津支配を任せたため、勝正らは「摂津の三守護」と称された。
なお、勝正は室町幕府(信長の働きかけがあったとも言われている)から摂津守護に任じられ、伊丹親興、和田惟政を配下とし摂津国を治めた。
永禄12年(1569年)、三好三人衆による本圀寺の変では手勢を率い救援に駆けつけ、桂川にて細川幽斎や三好義継とともに三好三人衆と戦い、敵陣に一騎駆けにて切り込み勝利に貢献する功を上げる。
その後、信長の但馬や播磨の平定に協力し、元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでは明智光秀や木下秀吉らを率いて殿軍をつとめ、信長を無事に逃がす功を上げた。
しかし、同年に家臣の荒木村重(池田長正の娘を娶っていたため一族衆)と一族の池田知正(長正の嫡男)が三好三人衆の調略を受け三好家に寝返り、勝正は池田城から追放される。
その後、三好三人衆についた村重らの押さえとして信長より原田城城主に任じられ細川幽斎らとともに各地を転戦したが、荒木村重が信長家臣になると池田に戻り隠居した(諸国を旅し、九州へ渡ったとも言われている)。
逸話
兵農分離を早くから実施し、金ヶ崎の戦いでは兵三千を率いて参陣したと言われる。
早くから鉄砲に着目し、また根来衆を傭兵として雇ったりもしており、鉄砲を多数所有し鉄砲の扱いや軍事利用法などに長けていたと言われる。
桂川の戦いでは、敵前逃亡したとの説もあるが戦況や戦後信長からの処罰等が見られない点等があり、信憑性にかける。
一時配下となった和田惟政は甲賀出身であり、甲賀忍者を雇い情報収集や調略を行っていた。
「勝政」と記載されることがあるが、当時の資料では「勝正」としての署名・記載しかなく誤りである。