池禅尼 (Ike no Zenni)
池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平安時代末期の女性。
平忠盛の正室。
平清盛の継母に当たる。
後に崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となる。
父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。
中関白藤原道隆の男藤原隆家の後裔。
名は宗子。
忠盛と結婚し、その間に平家盛、平頼盛という清盛とは腹違いの男児を産んでいる。
藤原璋子近臣家の出身だったが、従兄弟には鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成がいたことから藤原得子ともつながりがあった。
その幅広い人脈により「夫ノ忠盛ヲモモタヘタル者(夫の忠盛をも支えるほどの者)」(『愚管抄』)と呼ばれ、忠盛の妻たちの中で最も重んじられていた。
仁平3年(1153年)、夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。
保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛・禅尼が重仁親王を後見する立場にあったことから平氏一門は難しい立場に立たされた。
禅尼は、下記の通り、崇徳方の敗北を予測した。
「コノ事ハ一定新院ノ御方ハマケナンズ。」
「勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」
そして頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」協力することを命じた(『愚管抄』)。
この決断により平氏は一族の分裂を回避し、今まで築き上げてきた勢力を保持することに成功した。
平治元年(1159年)の平治の乱においては複雑な政争を勝ち抜いた継子平清盛が勝利し、その結果源義朝らの他の軍事貴族が駆逐された。
翌永暦元年(1160年)2月源義朝の嫡子で13歳の源頼朝が池禅尼ならびに頼盛の郎党である平宗清に捕えられた。
この際池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したと言われている。
また頼朝の助命の為に池禅尼が断食をし始めたため、遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したとも言われている。
上記内容を記している『平治物語』では、頼朝が早世した我が子家盛に生き写しだったことから宗子が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた統子内親王(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。
その後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。
頼朝は池禅尼の恩を忘れず、伊豆国で挙兵した後も彼女の息子である頼盛を優遇し、平氏滅亡後も頼盛の一族は存続する。