河田景与 (KAWATA Kagetomo)
河田 景与(かわた かげとも、文政11年10月18日 (旧暦)(1828年11月24日) - 明治30年(1897年)10月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した武士、政治家、華族。
元は鳥取藩(因州藩)士、初代鳥取県知事(県令)、子爵となる。
名(諱)ははじめ祺景。
通称は左久馬(佐久馬)、権次郎。
号は研田。
略歴
文政11年(1828年)鳥取藩士河田景介の子として生まれる。
弟に景福がいる。
河田家は代々鳥取藩の伏見留守居役を勤める家であり、嘉永4年(1851年)家督を継ぎ、伏見留守居となる。
若い頃から剣術を学ぶとともに、尊王攘夷思想に傾注し、同藩の尊王攘夷派勢力の中心人物となった。
幕末期の活動
文久3年(1863年)には京都留守居も兼務。
長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)らと交流し、尊王攘夷運動に関与する。
鳥取藩主池田慶徳は、尊攘派の巨魁であった徳川斉昭(水戸藩主)の五男であり、藩論も概ね尊攘派に傾いていた。
この頃、京都に集結していた尊攘派の志士は、真木保臣らが計画する攘夷親征・大和国行幸を主張し、朝廷内の過激公卿である三条実美らと連携して活動していた。
しかし、江戸幕府を信認する孝明天皇はこうした尊攘過激派の行動を快く思わず、その意を受けた薩摩藩士高崎正風・久邇宮朝彦親王らの画策により、薩摩藩・会津藩の兵力を背景に八月十八日の政変が起こされ、長州藩および三条ら尊攘派公卿は京都から一掃される。
一方、鳥取藩内でも河田を中心に攘夷親征運動の機運が盛り上がっていたが、同藩の重臣黒部権之介ら公武合体派は、これらの動きを藩を危険に陥れるものであると主張、藩内に深刻な対立を生じていた。
河田は政変の前日8月17日夜、同藩の太田権右衛門・詫間樊六・佐善元立ら21人とともに、本圀寺に宿泊中の黒部ら4人を襲撃し、3人を殺害、1人を自刃させた(本圀寺事件)。
政変後も親長州派として各勢力を周旋。
しかし、翌元治元年(1864年)長州藩が禁門の変を起こし朝敵となると、長州藩に通じたとして処罰され、藩地へ送られて幽閉された。
慶応2年(1866年)長州征討の石見国口において大村益次郎率いる長州軍に幕府側が大敗し、浜田藩領が攻略されると、河田は同志と共に脱藩して長州藩へ逃れた。
その後、土佐藩脱藩浪士坂本龍馬らと蝦夷地開拓を計画するが、頓挫した。
戊辰戦争での活躍
慶応3年(1867年)王政復古の大号令により朝敵であった長州藩が宥免され、倒幕のために長州藩兵が上京したのに伴い、河田らも鳥取に帰藩。
翌年の戊辰戦争勃発後は、東山道先鋒軍(総督は岩倉具定、参謀は板垣退助)に加わり、鳥取藩兵参謀となる。
3月の江戸開城後は北関東に転戦し、4月下旬に宇都宮城の戦いで活躍。
自ら抜刀して敵陣へ向かい、大声で配下の将兵を鼓舞したという。
閏4月には政府軍下参謀に就任、会津戦争に従軍する。
これらの活躍が認められ、賞典禄450石(鳥取藩士としては最高額)を与えられた。
維新後
元号が代わって明治元年(1868年)10月28日遠国奉行明治初期の府の設置と変遷判事に任じられ、新政府高官としての活躍が始まる。
翌明治2年(1869年)には軍務官判事、8月には兵部省に転ずる。
さらに京都府大参事兼留守判官、弾正台弾正台 (明治時代)、民部省兼福岡藩大参事などを歴任。
明治4年(1871年)7月に断行された廃藩置県を受け、同年11月に初代鳥取県権令(現在の県知事に相当)となった。
明治11年(1878年)には元老院 (日本)議官に就任。
明治20年(1887年)には子爵を授けられ華族に列した。
明治30年(1897年)10月12日に没する。
享年70。
東京都港区 (東京都)南青山の梅窓院に葬られ、後に府中市 (東京都)の多磨霊園に改葬された。
戒名は養心院殿本覚浩然大居士。