河越重頼 (KAWAGOE Shigeyori)
河越 重頼(かわごえ しげより)は、平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。
新日吉社領河越荘の荘官。
源頼朝の命令で源義経に娘(郷御前)を嫁がせた。
この事から、源氏兄弟の対立に巻き込まれた。
誅殺された人物である。
桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。
秩父氏の嫡流家が代々受け継いできた「武蔵国在庁官人在庁官人の職務と別の側面総検校職」にあった。
武蔵国の軍事統率権を有する同国の最大勢力であった。
妻は源頼朝の乳母・比企尼の次女で、源頼家の乳母。
秩父党の嫡流
久寿2年(1155年)8月16日 (旧暦)、大蔵合戦で祖父・秩父重隆が源義賢と共に源義平に討たれる。
翌保元元年(1156年)7月 (旧暦)、重頼は弟師岡重経と共に保元の乱で源義朝の陣に従った。
『保元物語』の白河殿に義朝が夜討する場面で、河越氏・師岡氏は「高家」として他の武士と区別して書かれている。
平治元年(1159年)12月 (旧暦)、平治の乱で義朝が平清盛に敗れる。
永暦元年(1160年)3月 (旧暦)、義朝の嫡男・頼朝(14歳)は伊豆国に流罪となる。
頼朝の乳母・比企尼は、武蔵国比企郡の代官となった夫の比企掃部允と共に京から領地へ下った。
治承4年(1180年)の秋まで20年間頼朝に仕送りを続けた。
比企氏の次女を娶った重頼は、同じく比企尼の婿である安達盛長・伊東祐清と共に頼朝を援助している。
永暦元年(1160年)、河越氏(能隆もしくは重頼)は、所領を後白河天皇に寄進し荘官となる。
上皇はさらに京都の新日吉社へ寄進し、所領は新日吉社領河越荘と呼ばれるようになった。
この年の武蔵国国司は平知盛であった。
『平家物語』「知章最期」の段に書かれた一ノ谷の戦い場面で、嫡子河越重房が平知盛の逃がした名馬・井上黒(河越黒)を捕らえる。
この逸話の縁が伺える。
頼朝への臣従
治承4年(1180年)8月17日 (旧暦)、頼朝が伊豆国にて挙兵。
同年8月26日 (旧暦)、重頼は伊勢平氏方に付いた同じ秩父一族である畠山重忠の要請に応じた。
江戸重長ら武蔵国の武士団数千騎を率いて衣笠城を攻めた。
三浦義明を討ち取る(衣笠城合戦)。
しかし10月4日 (旧暦)、勢力を回復して再挙した頼朝が武蔵国に入ると、畠山重忠・江戸重長らと共に傘下に入る。
以降、御家人として重く用いられる。
寿永元年(1182年)8月12日 (旧暦)、頼朝の嫡男・頼家が誕生。
重頼の妻(比企尼の娘)が産所である比企能員の屋敷に呼ばれる。
乳母として最初の乳を含ませる儀式を行う。
弟の師岡重経が鳴弦役を担った。
寿永3年(1184年)1月20日 (旧暦)、源範頼・源義経を頼朝代官とする源義仲追討軍が平安京に向かう。
重頼は嫡男重房と共に追討軍に参加。
都に入り、範頼・義経・重頼・重房他数騎で後白河法皇が幽閉されていた六条殿に駆けつけた。
仙洞御所の警護にあたる。
同年8月6日 (旧暦)、一ノ谷の戦い後に義経が鎌倉の許可無く朝廷から検非違使の任官を受ける。
頼朝の怒りを買う。
この時、重頼の弟・重経も共に兵衛尉に任官した。
頼朝から罵倒されている。
同年9月14日 (旧暦)、頼朝の命により、娘(郷御前)が京に上って義経に嫁いだ。
舅となる。
文治元年(1185年)、頼朝と義経が対立した。
義経が後白河天皇から頼朝追討の院宣を受けると、重頼も頼朝から敵対視されるようになった。
同年11月12日 (旧暦)、義経の縁戚である事を理由に、所領である伊勢国香取五カ郷を没収される。
大井実春に給与され、他は重頼老母の預かりとなる。
重頼の娘婿である下河辺政義も連座して所領を没収された。
この後、重頼は嫡男重房と共に誅殺され、武蔵国留守所惣検校職は畠山重忠に移された。
重頼死後の河越氏
文治2年(1186年)8月5日 (旧暦)、頼朝が河越荘の年貢未済処理を命ずるなど、河越家に混乱が伺える。
文治3年(1187年)10月5日 (旧暦)、頼朝は重頼誅殺を「憐れである」として、河越荘の旧領を重頼の後家尼(比企尼娘)に安堵。
地元の名主百姓らが従わなかった為、後家尼の指示に従うよう命じる。
重頼の次男河越重時、三男河越重員については『吾妻鏡』において頼朝と二代将軍・頼家の時代には記録が無い。
三代将軍・源実朝の代の元久2年(1205年)6月22日 (旧暦)条畠山重忠の乱における重忠討伐軍の中に初めて確認される。
重忠が滅びた後、武蔵国は北条氏が国司となって代々配下に置かれる事になる。
嘉禄2年(1226年)4月、重員が鎌倉幕府より武蔵国留守所総検校職に補され河越氏が復権。
重頼誅殺から40年後の事であった。