河野通信 (KONO Michinobu)
河野 通信(こうの みちのぶ、保元元年(1156年) - 貞応元年(1223年)5月19日)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将。
河野通清の子。
通称は四郎。
伊予水軍の将。
子に通政、河野通久。
出家して観光と号した。
一遍の祖父にあたる。
生涯
治承4年(1180年)8月に源頼朝が反平氏の兵を挙げると、それに呼応し治承5年(1181年)に父通清と共に本拠の伊予国風早郡高縄山城(愛媛県北条市)に拠って平維盛の目代を追放した。
しかし伊予内外の平氏方の総攻撃を受け、父通清は同城で討ち死にした。
その後通信は高縄半島でゲリラ戦を展開し、進入していた備後国の西寂を倒し、阿波国の田口成直を伊予国喜多郡比志城(大洲市)で撃破して主導権を握った。
文治元年(1185年)2月、源義経が平氏追討のため四国へ下ってくると、通信は軍船を率いて屋島へ赴き、志度合戦で義経に軍船を献上した。
壇ノ浦の戦いにも参加し、通信の軍船が中堅となって活躍した。
戦後は鎌倉幕府の御家人となり、守護職は与えられなかったものの、伊予国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められた。
文治5年(1189年)の奥州合戦に従軍。
子の通政は西面武士として院庁に仕えた。
通信は承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽天皇方につくが、上皇方が敗北すると通政と共に領地へ戻り、高縄山城に籠もって反抗を続けた。
しかし翌年に幕府方に居城を攻められ降伏。
捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり、通政は斬られ、所領の多くは没収された。
江刺郡稲瀬(現在の岩手県北上市稲瀬町)にある国見山極楽寺で貞応元年(1223年)に死去した。
享年68。
大正5年(1916年)贈従五位。
墓所は現在も稲瀬町水越地区に聖塚として残る。
孫にあたる一遍が全国を遊行した様子を描いた絵巻物である「一遍上人絵伝」に、弘安3年(1280年)に祖父の墓で供養を行う様子が描かれていることが、この墓所を発見する手がかりになった。
河野氏本家はひとり鎌倉幕府方に付いた子の河野通久によって辛うじて続くこととなったが、以後伊予国内での影響力が低下することとなった。