河鰭公述 (KAWABATA Kinakira)
河鰭 公述(かわばた きんあきら、文政12年1月9日 (旧暦)(1829年2月12日) - 元治元年8月21日 (旧暦)(1864年9月21日))は、江戸時代末期の公家。
藤原北家藤原公季流河鰭家第24代当主。
正三位非参議河鰭実利の子。
母は中納言外山光実の娘(父の正室)。
室は権中納言日野西光暉の娘。
子に河鰭公篤(後に実文の養子縁組となり、河鰭家第26代当主となる)らがおり、養子に第25代河鰭実文(内大臣三条実万の子)がいた。
安政5年(1858年)日米修好通商条約勅許に反対し、廷臣88人の列参に加わった(廷臣八十八卿列参事件)。
文久2年(1862年)尊攘派公家13人とともに和宮親子内親王降嫁を進めた岩倉具視らを弾劾した。
同年、国事御用掛となる。
元治元年(1864年)、正四位下近衛府となるが、同年8月21日卒去した。
享年36。