浅井久政 (AZAI Hisamasa)

浅井 久政(あざい ひさまさ、淺井 久政、)は日本の戦国時代 (日本)の武将。
近江国の戦国大名浅井氏2代目当主、下野国守。
浅井長政(賢政)の父。

なお、名字および所領地の「浅井」の読みは「あざい」が正しく、「あさい」という読み方は誤りであると考えられてきたが、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある(宮島敬一著「浅井氏三代」参照)。

経歴

浅井亮政の長子(庶長子の説あり)。
生母は側室尼子氏の娘尼子馨庵(近江国の尼子氏で、出雲国の尼子氏はその庶家。
生母については、諸説があり『六角佐々木氏系図略』・「浅井過去帳」に浅井千代鶴とある。
この女性は六角宗能(親泰)側室で、久政は養子であり、尼子氏は養母であるとも)。
妻は近江豪族井口経元の娘小野殿(阿古御料人)。

1542年に父・亮政が没したため後を継いだが、武勇に優れた父とは対照的に武勇に冴えなかった。
亮政は正室との間に生まれた鶴千代(久政の異母姉)の婿として、田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたともいわれるが、亮政が若いころに側室との間に生まれた久政が家督を継ぐこととなった。

そのため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず、反乱をおこすなど久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。
久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。
嫡男に六角義賢の一字 賢の字を偏諱として受けさせ、「賢政」と名乗らせたりその妻に六角氏家臣平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。

このような、久政の弱腰外交に家臣たちの多くが不満をもつようになり、1560年に久政の嫡男・浅井長政が野良田の戦いで六角義賢に大勝し六角氏から独立すると、家臣たちから家督を長政に譲ることを強要され、強制的に隠居させられることとなった。
一時は竹生島に幽閉されていたほどである。
しかしこのクーデター的家督移譲には不明瞭なところが多く、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけ、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。

しかし、この久政と長政との曖昧な関係が結果的には浅井家滅亡の遠因となってしまう。
織田氏と朝倉氏が対立を深め、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られた場面で久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で信長に反旗を翻すこととなった。
結果的に数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北し、1573年、織田軍の猛攻を受けた久政は、小谷城京極丸にて自害し、長政もやがて自刃し戦国大名浅井氏は三代で終幕した。

後世の再評価

一般に久政は、時の流れを読めなかった暗愚な当主とされることが多い。
久政暗愚説の根拠となっている歴史書の多くが学術的には偽書と位置付けられており、後年になって誇大に記述されたり、脚色されたものがほとんどである。
最近の有力説に久政がそれほど無能ではなかったという説がある。

六角氏への従属の再評価

浅井・朝倉同盟は久政の父で長政の祖父である浅井亮政の代には存在した。
亮政は南近江守護であり、かつての主家である北近江守護京極家の本家筋である六角家と対立していた際に、朝倉氏との同盟を築き上げた。
当時の六角家は名君六角定頼を筆頭に日の出の勢いであり、その優劣の差は亮政の才をもってしても補うことはできなかった。
事実、亮政は美濃や越前へ幾度も逃亡している。

一方、当時の朝倉家も全盛期であった。
その朝倉家にしても、北に一向一揆という爆弾を抱えており、大勢力である六角家との直接対立は望むことではない。
緩衝地帯として、北近江を手中に収める浅井氏との同盟は理に適ったものあった。
両者の利が一致して、朝倉・浅井同盟は築かれたのであろう。

しかし、朝倉孝景 (10代当主)と朝倉宗滴が世を去った後の朝倉家はかつての勢いを失っており、同盟の意味は薄まっていった。
だからこそ、久政は朝倉家から六角家へと乗り換えたのだろうと思われる。
六角氏に臣従した頃、浅井家は京極氏や隣国美濃の斎藤道三からたびたび攻撃され、窮地に陥っていた事実がある。

六角氏に臣従して庇護を受ければ、他の勢力を牽制することになって侵攻を食い止められ、領国経営に専念することができる。
事実、その間に久政は政治の安定化(後述)や先代浅井亮政が武力によって傘下に収めた土豪たちの掌握に努めており、浅井家を戦国大名へと押し上げる基礎を築きあげることに成功していた。

さらに、六角氏の勢力内といっても、大名の家名を保ち、領土も削られていないのは、従属大名としては稀な例である。
松平家は今川義元や織田信長に領土を一部明け渡している。
このことからすると、久政は優れた外交能力を持っていたのではないかと思われる。
弱腰と見られがちな従属という形も領国を守る手であり、外交の分野では成功を収めたのではないだろうか。

内政においての再評価

内政面でも久政の業績を挙げることができる。
まず、治水や灌漑事業がある。
湖北の村々の河川用水の使用区域の対立を調停するため、法令や文書を発給し、それを阻害すると思われる豪族に対して圧力をかけている。

例としてこんな話がある。

当時小谷麓の村々で深刻な水不足があった。
その辺りの用水の源である高時川の水流を握るのは、力を持つ豪族の井口氏であった。

久政は村民の願いによって井口氏へ圧力をかけたが、井口氏は大量の貢物という難題をふっかけ、あきらめさせようとした。
しかし中野(現東浅井郡)の土豪がこれを引き受けたため、井口氏も渋々承諾したという。
(この間に中野の土豪の娘が人柱となって水を得たという逸話もある。
また貢物の中に餅千駄とあったため、彼らの業績をたたえて餅ノ井と名づけられた。)

用水路を確保した久政は灌漑事業を拡大したが、用水をめぐって村同士の争いが発生した。
この調停のため、用水口の統一や水量や村による優先順位の指定などをしている。
(なお、この時の取り決めは江戸から現代にかけてまで守られている。)

また、小谷城山上に六坊(寺の集住)を建設したり、寺社衆に対して所領の安堵や税政策の強化などを打ち出した。

さらには小谷城の増築、土塁の建設も行っている。

この他に、後世の悪評にもつながるが、積極的に能などの文化を推進し(久政には森本鶴太夫というお抱えの舞楽師がいた)、鷹狩や連歌を嗜み、文化人としても名を馳せた。

長政への家督移譲の再評価

通常、戦の有無にかかわらず、クーデターという実力行使によって家督が移った場合、前代当主の家中における発言力は皆無になることが通例である。
しかし、竹生島に幽閉された久政が、長政や長政派の家臣たちと和解したという形で小谷城に帰還していることからすると、この家督移譲劇は、浅井家中にある久政に対する不満を長政に家督を譲ることで沈静化させ、家臣団の結束を高めるための芝居に過ぎなかったとみることができる。

言い換えれば、久政自身の政治力を剥ぐためのものではなかったということである。
それに、クーデターを起こされた側が失脚後も権力を維持していた場合、元の権力の奪還のための動きが起こり得るのに、浅井家では起こっていない。
こうしたことを考えると、この家督移譲は六角家からの独立を意図した芝居であった可能性が高い。

織田氏との敵対の再評価

久政が朝倉方につくべきだと主張した理由として、「亮政の代からの同盟関係であること」、「度重なる斎藤氏氏、京極氏、六角氏の攻勢に共闘した大恩」、「久政自身が信長の性格や方針に懐疑的であったこと」などが挙げられている。

しかし、朝倉家との同盟関係があるなら、六角家に服属するようなことはしないはずであり、朝倉・浅井同盟は存在しない可能性も指摘されている。
(ただし、朝倉家は冬場の軍事的活動が困難な上、久政が当主を継いだ時期には朝倉家は加賀一向一揆との緊張が再燃する一方、美濃土岐家の内紛に深く関与しており、近江方面への積極的な介入が困難であった事実は考慮されるべきである。)

この傍証として、朝倉家が主家である斯波家からその領土を奪うような形で越前を乗っ取った時点で、斯波家配下の守護代であった織田家と朝倉家は仇敵のような間柄であったはずという考え方がある。
そうであるなら、朝倉家と対立する織田家の当主である信長の妹を、息子の正室に迎えることは、朝倉・浅井同盟があるのならば、しなかったはずというのである。

また、三好・朝倉・石山本願寺・武田、そして浅井家による信長包囲網の成立した頃は、信長が最も窮地に立たされた時期である。
これだけの強敵に囲まれた信長を、当時は誰もが滅亡すると思っていた。
だが、幸運と独自の戦略眼によって信長はその窮地を脱し、覇者となった。

これらのことからすると、久政が織田氏を見限って朝倉氏との共闘を選択したのは、従来言われてきたような復古的・情緒的理由からではなく、戦国大名としての戦略的な思考によるものではないかと考えられる。
結果的に戦国大名浅井氏が滅亡に追い込んだことから、久政は時の流れを読むことができなかった暗愚な当主と言われるようになったのであろう。

久政の最期

1573年、織田軍は一乗谷陥落後打って返して小谷城を攻撃。
京極丸を羽柴隊に落とされ、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断された。
羽柴勢はそのまま小丸を攻撃。
最期を悟った久政は井口越前守、赤尾清定らを呼び、

「今よりわしは腹を切るゆえ、その間敵勢を食い止めてくれ」と言い渡した。

彼らは羽柴勢より屋敷を死守。
文字通り討ち死にした。

久政は一族・浅井惟安、舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹した。
これを福寿庵(惟安)が介錯し、次に福寿庵を鶴松大夫が介錯した。
鶴松大夫は、「主君と同じ座敷では恐れ多い」と言って庭へ降り、そこで切腹して果てた。

内政官的な久政ではあったが、この最期は同時期の武田勝頼や織田信長に引けをとらないものであり、湖北武士の名に恥じない最期であった。

諸子
男子
浅井長政
浅井政元
浅井政之
岡崎安休
- 本願寺顕如の乳兄、異説 / 諸説あり
大文字屋新十郎
- 浅井治政のこと、異説 / 諸説あり

女子
昌安見久尼(昌庵見久尼)
京極マリア(京極高吉室)
大弐局(六角義実室)
近江の方(久政の妹の説あり、斎藤義龍室、斎藤龍興生母)

孫に浅井万福丸・淀殿(諸説あり)・常高院・崇源院・京極高次・京極竜子・京極高知ら。

曾孫に豊臣鶴松・豊臣秀頼・豊臣完子・千姫・珠姫・勝姫 (天崇院)・初姫・徳川家光(双方とも諸説あり)と徳川忠長・徳川和子・京極忠高・京極高広・京極高三ら。

玄孫に九条道房・二条康道・豊臣国松・奈阿姫・前田光高・前田利次・前田利治・松平光長・亀姫 (宝珠院)・千代姫・徳川家綱・徳川綱重・徳川綱吉・京極高国・京極高直・明正天皇ら。

[English Translation]