深作欣二 (FUKASAKU Kinji)

深作 欣二(ふかさく きんじ、1930年7月3日 - 2003年1月12日)は日本の映画監督。
茨城県水戸市出身。
妻は女優の中原早苗。
映画監督の深作健太は実子。
仲間からの愛称は「サクさん」。

略歴
茨城大学教育学部附属中学校を卒業。
水戸第一高等学校卒業後、日本大学藝術学部卒業。

1953年、東映に入社。

1961年、『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』(JJサニー千葉主演)で監督デビュー。
『誇り高き挑戦』(鶴田浩二主演)で注目される。
以後、『ジャコ萬と鉄』、『軍旗はためく下に』などの秀作を発表。

1970年、日米合作の大作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を黒澤明が降板したため、後任となった舛田利雄から懇願され共同監督を引き受ける。

1973年から始まった『仁義なき戦い』(脚本笠原和夫 (脚本家)、主演菅原文太)シリーズは、映画史に残る大ブームとなり、「実録映画」の第一人者の地位を不動のものとする。
その後もテレビドラマ『傷だらけの天使』(2本を監督)、映画『柳生一族の陰謀』、『蒲田行進曲』、『バトル・ロワイアル (映画)』など、発表する作品の多くが話題作となる。

1997年、紫綬褒章受章。

2002年中は、カプコンのプレイステーション2用ゲームソフト『クロックタワー3』のイベントCGムービーの監督として撮影(モーションキャプチャ収録)、これを撮り終えた(撮り終えたという意味ではこちらが遺作である)。

2003年1月12日、前立腺癌の脊椎転移のため死去、。
後に勲四等旭日小綬章を贈られた。

深作は抗癌剤の投与を拒んだ。
副作用による男性機能の低下を懸念したためである。

また、未完だった遺作『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の監督は、プロデューサーを務めていた息子の深作健太に引き継がれた。

作風
暴力的な作品を撮る映画監督というイメージが強いが、本人が戦争という巨大な暴力を体験したことをきっかけである。
暴力を描くことで暴力を否定しようという考えが根底にあり、決して暴力を肯定していたわけではない。
だからこそ、様々な批判を受けても、最後まで作風を変えなかったと思われる。

またアクション映画の監督と見られがちだが、小松左京原作の『復活の日』や檀一雄原作の『火宅の人』の映像化、『柳生一族の陰謀』や『魔界転生』といった時代劇、『おもちゃ』のような文芸作品からサイエンス・フィクションまで、幅広い作品を残している。

これらの作品は国内のみならず、海外からも好評である。
『ガンマー第3号 宇宙大作戦』はMGM配給で、『宇宙からのメッセージ』はユナイト映画配給でそれぞれ米国で公開された。
また、『バトル・ロワイアル』はフランスやイギリスなど海外でも注目をひき、香港では興行成績1位を記録した。
クエンティン・タランティーノやジョン・ウーなどの著名な監督らは、彼を崇拝していることを明言している。

なお、全フィルモグラフィーのうち、『おもちゃ』以外の全ての作品で人が死ぬシーンがあり、死について生涯こだわり続けたことがうかがえる。

人物
映画作りに関しては相当にエネルギッシュな人物で、『仁義なき戦い』での演出は、ほとんど「行けー!!」「やれー!!」「死ねー!!」などの言葉で済ましていたそうである。
深夜まで撮影が長引いたにもかかわらず、俳優達を引き連れて飲みに行き、翌朝からまた撮影に入るという生活を何ヶ月も続けたという伝説を残している。
菅原文太のように、酒が強くタフな俳優ならともかく、そうではない多くの俳優は付き合うのが大変であったという。
ろくに寝られなかった俳優達は、脹れた顔を元に戻すために冷たいタオルをあてたり、腫れた瞼が目立たないようサングラスをかけるなどして、撮影に臨んだという。
朝に弱く、夜になると調子が出てきて、撮影が毎日深夜まで続くため、「深作組=深夜作業組の略」とも言われた。

干されていた室田日出男、大部屋でくすぶっていた川谷拓三、志賀勝らを抜擢し、「ピラニア軍団」として知らしめたことも有名である。

またTHE BLUE HEARTSのファンで、彼らの歌が自分の映画の作風に似ていると感じていた。
特に「1001のバイオリン」が好きで、深作の葬儀にこの曲が流された。

死去前後の出来事
2002年
9月25日
- 前立腺癌の脊椎転移を公表。
『バトル・ロワイアルII(仮題)』の製作を発表。

10月25日
前作公開時に舌戦を繰り広げた民主党 (日本 1998-)国会議員の石井紘基が右翼活動家に自宅前で刺され死亡。

12月16日
- 『バトル・ロワイアルII(仮題)』撮影開始。

12月21日
- がんの骨転移の痛みから、放射線治療のため予定より2日早く入院。

12月23日
- 定期の放射線治療を受ける。

12月29日
- 体力の低下による風邪から肺炎を併発する。

12月31日
- 自力呼吸が困難になり、人工呼吸器を装着。
一時危篤状態に。

2003年
1月初頭
-小康状態に回復。

1月5日
- 深作健太が監督代行として、撮影を再開。

1月6日
- 深作健太が監督代行に正式決定。

1月7日
- 東映社長と深作健太が会見。
同社長は深作欣二について2月初頭に復帰させたいと発言。

1月11日
- 夕方から容態が悪化。
妻の中原早苗、息子健太や菅原文太らが病院へ。
荻野目慶子も見舞を申し入れたが、妻の中原がこれを拒否。

1月12日
- 午前1時、死去。

1月16日
- 午後、築地本願寺で葬儀・告別式。
菅原文太弔辞。
出演者やファンら約1100人参列。
ジョン・ウーなど弔電約1000通。

1月18日
- 東大泉の東映撮影所で撮影再開。

2月7日
- 政府、勲四等旭日小綬章授与を閣議決定。

3月10日
- 長崎県西彼杵郡での撮影現場をマスコミに公開。

3月12日
- ビートたけし参加シーンの撮影現場をマスコミに公開。

3月20日
- 横須賀市田浦町の水道施設「盛福寺管路ずい道」内でトンネルのシーンを撮影。

4月10日
- 俳優の出演するシーンの撮影が終了。

4月13日
- 東映本社でクランクアップ報告の記者会見。
アフガニスタン・ヒンドゥーク地方での田園風景撮影計画を発表。

4月21日
- アフガニスタンで8日間に渡る撮影を開始。
撮影対象は町並みに変更された。
スタッフは5名で、予定されていた健太監督は同行せず。

5月18日
- 『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の映画のレイティングシステム指定が発表。

5月23日
- カンヌ国際映画祭の見本市にて、欧州8カ国と上映権契約締結。
既に締結済みの5カ国とあわせ、13カ国に。

6月1日
- 鉄道駅や学校前などに「『殺しに行け』と先生が言った」というコピーの入った広告ポスターの掲示を開始。

6月6日
- 「抗議が殺到」したという理由で広告差し替えを発表。
撤去開始。

6月22日
- 新宿の東京厚生年金会館で完成披露試写会。

7月3日
- 渋谷東映で公開前々夜祭。
深作欣二の誕生日。

7月5日
- 全国261館で公開開始。
深作健太、パート3製作の予定なしと発言。
岡田社長、興収40億円を狙えると発言。

7月13日
公開8日目。
観客動員50万人突破。

[English Translation]