渋川義満 (SHIBUKAWA Yoshimitsu)
渋川 義満(しぶかわ よしみつ、生年不詳 - 元亀4年2月17日 (旧暦)(1573年3月20日))は、戦国時代 (日本)の武将。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流、渋川氏。
足利将軍家の御一家。
備後国小童山城城主。
諱は義満。
将軍家の通字の義の字に渋川氏の通字・満の字を合わせて偏諱として受けたもの。
官位は宮内大輔従五位。
父は渋川義正、母は毛利弘元の女。
九州探題の家系であり今探題と称された。
渋川氏は足利氏の支流であるばかりでなく、室町幕府2代将軍足利義詮の正室の生家でもあった。
吉良氏や斯波氏同様、足利氏一門の中でも将軍家の家族として遇された名門である。
母は安芸国の毛利弘元の女で、毛利元就の異母妹にあたる。
この縁から毛利氏の保護下にあったらしいが家臣としての記録はなくあくまで将軍家一門の名族として家名を保った。
元亀4年(1573年)に没した。
勢力振るわず名族としての渋川氏は義満の死を以って消滅したといってよい。
『芸藩通志』には子として新衛門なる人物が見え、帰農したとされるが真偽は不明である。
息女は毛利輝元の仲介で旧守護・大内氏の庶家にて毛利家臣・冷泉氏に嫁した。
冷泉隆豊次男・冷泉元満の正室となった。