渋沢栄一 (SHIBUSAWA Eichi)
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日 (旧暦)(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、幕末の幕臣、明治~大正初期の大蔵省官僚、実業家。
第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所などといった多種多様の企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父と呼ばれる。
正二位勲一等子爵。
雅号は青淵。
戒名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。
人物
生い立ち
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。
幼名は市三郎。
のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。
渋沢成一郎は従兄。
渋沢家は藍玉_(染料)の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける大農家だった。
原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。
市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。
14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったとされる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠 (実業家)の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。
剣術は、従兄弟の新三郎より神道無念流を学んだ。
18歳の時(1858年)には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。
また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。
その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取り、横浜を焼き討ちにして、幕府を倒す計画をたてる。
しかし、惇忠の弟長七郎の説得により中止する。
京都に向かい、一橋家家臣の平岡円四郎の推薦により徳川慶喜に仕えることになる。
仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い、幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟徳川昭武の随員として、フランスを訪れる。
パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応3年(1867年)に新政府から帰国を命じられ、12月に帰国した。
大蔵省出仕~実業家時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩に出仕することを命じられる。
しかし、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、仕官を断り慶応4年(1868年)1月に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。
大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。
しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。
また、第一国立銀行だけでなく、七十七銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行のほか、東京瓦斯、東京海上日動火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
若い頃は頑迷なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
渋沢が三井八郎右衛門8代高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。
「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の渋沢敬三にもこれを固く戒めた。
また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。
しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したものであって、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものであった。
社会活動
栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
また、当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。
また、商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学、伊藤博文との関係で東京女学館大学の設立に携わった。
また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。
なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
道徳経済合一説
『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。
また、幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。
栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
系譜
江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。
このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。
栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目宗助の三男としてうまれたが「中ノ家」に養子にはいったのである。
明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。
栄一が故郷をでてからは妹の貞子が「中ノ家」をまもり、須永家より市郎をむかえ4代目とした。
貞子・市郎夫妻の長男渋沢元治は初代名古屋大学総長となった。
また、栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦が出ている。
その他
日本史上を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として過去に何回か挙げられたものの実現には至っていない。
特に日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)の肖像候補として最終選考に残ったが、結局伊藤博文が採用された。
当時は偽造防止に、肖像にヒゲがある人物が用いられていたためである。
日本では渋沢の肖像を入れた紙幣は発行されなかったが、1902~1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。
渋沢は晩年を川越市で過ごした。
深谷市では、栄一の命日である11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。
埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。
また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。
これは深谷ネギが栄一の故郷である深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
現在埼玉県では渋沢の功績に因み、健全な企業活動と社会貢献を行っている全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。
居合の達人。
渋沢栄一の著作
『渋沢栄一全集』(全6巻) 平凡社、1930年
『青淵百話』 同文舘、1931年
『論語と算盤』 国書刊行会、1985年
『論語講義』(全7巻)<講談社学術文庫> 講談社、1977年
『雨夜譚』(長幸男:校注)<岩波文庫> 岩波書店、1984年
栄典
明治44年(1911年)8月24日: 勲一等瑞宝章
昭和3年(1928年)11月10日: 勲一等旭日桐花大綬章