渡辺崋山 (WATANABE Kazan)
渡辺 崋山(わたなべ かざん、寛政5年9月16日 (旧暦)(1793年10月20日) - 天保12年10月11日 (旧暦)(1841年11月23日))は、江戸時代後期の政治家・画家。
40歳の時、三河国田原藩(現在の愛知県田原市域にほぼ当たる)家老。
通称は登(のぼり・ただし一部の絵には「のぼる」と揮毫)、諱は定静(さだやす)。
号ははじめ華山で、35歳ころに崋山と改めた。
誕生と苦難の幼少時代
田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として生まれる。
渡辺家は田原藩の中でも上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通は養子であったために15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、加えて折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。
さらに父定通が病気がちであったために医薬に多くの費用がかかったこともあり、幼少期は極端な貧窮の中に送った。
日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。
このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。
この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載されていた。
こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになった。
のちに谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能は大きく花開くこととなり、20代半ばには画家として著名となり、生活にも苦労せずにすむようになった。
一方で学問にも励み、鷹見星皐、後に松崎慊堂から儒学(朱子学)を学び、昌平坂学問所に通い佐藤一斎からも学んでいる。
また、佐藤信淵からは農学を学んだ。
田原藩士として
藩士としては、8歳で時の藩主三宅康友の嫡男・亀吉の伽役を命じられ、亀吉の夭折後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役となり、藩主康友からも目をかけられるなど、幼少時から藩主一家にごく近い位置にあった。
こういった生い立ちが崋山の藩主一家への親近感や一層の忠誠心につながっていった。
16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕するが、納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目であった。
文政6年(1823年)、田原藩の和田氏の娘・たかと結婚し、同8年(1825年)には父の病死のため32歳で家督を相続し、80石の家禄を引き継いだ(父の藩内の出世に合わせて、禄は復帰していた)。
同9年には取次役となった。
ところが、翌10年に藩主康明は28歳の若さで病死。
藩首脳部は貧窮する藩財政を打開するため、当時比較的裕福であった姫路藩から持参金つき養子を迎えようとした。
崋山はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・三宅友信の擁立運動を行った。
結局藩上層部の意思がとおって養子・三宅康直が藩主となり、崋山は一時自暴自棄となって酒浸りの生活を送っている。
しかし、一方で藩首脳部と姫路藩と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とすることを承諾させている。
また藩首脳部は、崋山ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇した。
崋山は側用人として親しく友信と接することとなり、こののちに崋山が多くの蘭学書の購入を希望する際には友信が快く資金を出すこともあった。
友信は崋山の死後の明治14年(1881年)に「崋山先生略伝」として崋山の伝記を書き残している。
天保3年(1832年)5月、崋山は田原藩の年寄役末席(家老職)に就任する。
20代半ばから絵画ですでに名を挙げていた崋山は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわなかった。
こうして崋山は、藩政改革に尽力する。
優秀な藩士の登用と士気向上のため、B16を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。
さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。
永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。
さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。
このほか、ハゼノキ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。
天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。
「蘭学にて大施主」
また、紀州藩儒官遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英などと飢饉の対策について話し合った。
この成果として長英はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した『救荒二物考』を上梓するが、絵心のある崋山がその挿絵を担当している。
その後この学問サークルはモリソン号事件とともにさらに広がりを見せ、蘭学者の長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などで深く議論するようになった。
特に江川は崋山に深く師事するようになり、幕府の海防政策などの助言を受けている。
こうした崋山の姿を、この会合に顔を出したこともある藤田東湖は、「蘭学にて大施主」と呼んでいる。
崋山自身は蘭学者ではないものの、時の蘭学者たちのリーダー的存在であるとみなしての呼び名である。
蛮社の獄とその最期
しかし幕府の保守派、特に幕府目付鳥居耀蔵らはこれらの動きを嫌っていた。
鳥居は元々幕府の儒学(朱子学)を担う林家の出であり、蘭学者が幕府の政治に介入することを好まなかったし、加えてそもそも崋山や江川も林家(昌平坂学問所)で儒学を学んだこともあり、鳥居からすれば彼らを裏切り者と感じていたともいわれる。
天保10年(1839年)5月、鳥居はついにでっちあげの罪を設けて江川や崋山を罪に落とそうとした。
江川は老中水野忠邦にかばわれて無事だったが、崋山は家宅捜索の際に幕府の保守的海防方針を批判し、そのために発表を控えていた『慎機論』が発見されてしまい、幕政批判で有罪となり、国元田原で蟄居することとなった。
翌々年、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てることとなった。
ところが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたとの風聞が立ち(一説には藩内の反崋山派による策動とされている)、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹した。
崋山に対する反崋山派の圧力はその死後も強く、また幕府の手前もあり、息子の渡辺小崋が家老に就任して家名再興を果たした後も墓を建立することが許されなかったという(江戸幕府が崋山の名誉回復と墓の建立を許可したのは、江戸幕府滅亡直前の明治元年3月15日 (旧暦)(1868年4月7日)のことであった)。
なお、小崋をはじめとする崋山の子女はいずれも子供に恵まれなかったために、明治期にその家系は断絶することになった。
著書に『西洋事情書』など。
画家・文人としての崋山
華山は年少の頃より生計を支える為に画業を志した。
最初、大叔父の平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事したが付届けができないことを理由に破門された。
これを憐れんだ父は、藩主の姻戚の家来というつてを頼って金子金陵に崋山の弟子入りを頼み、受け入れられた(崋山16歳)。
金陵は崋山に眼をかけ、崋山の画力は向上した。
このころ、初午灯篭の絵を描く内職を手がけた。
崋山によれば百枚書いて、銭一貫だったというが、このときに絵を速く描く技術を身につけたことは、後年の紀行文中のスケッチなどに大きく役立ったであろうことがうかがえる。
さらに、金陵の師である谷文晁にも教えを受けた。
文晁は華山の才能を見抜き、画技のみならず文人画としての手本となった。
師の文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収した。
文人画は清の惲南田に強く影響されている。
また肖像画は陰影を巧みに用いて高い写実表現に成功している。
西洋画の影響があったことは間違いないがかつて例のない独自の画法を確立させた。
当時から華山の肖像画は人気があり多くの作品を画いた。
代表作としては、「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」・「市河米庵像」などが知られる。
弟子に椿椿山・福田半香などが育った。
こうした崋山の写実性へのこだわりを示すエピソードがある。
1835年(天保6)、画家友達であった滝沢琴嶺が没し、崋山は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴にその肖像画の作成を依頼された。
当時、肖像画は当人の没後に描かれることが多く、画家はしばしば実際に実物を見ることなく、やむを得ず死者を思い出しながら描くことがしばしばあり、崋山の琴嶺像執筆もそうなる予定だった。
ところが崋山はそれを受け入れず、棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んでスケッチし、さらに顔に直接触れたという(馬琴『後の為の記』)。
これらは当時の価値観や風習から大きく外れた行動であった。
元々崋山は貧しさをしのぐ目的もあり画業を始めたのだが、それが大きく花開き、また画業を習得する際に得た視野や人脈は、崋山の発想を大きくするために得がたいものとなった。
代表作に当時の風俗を写生した「一掃百態図」など。
また、文人としては随筆紀行文である『全楽堂日録』『日光紀行』などを残し、文章とともに多く残されている挿絵が旅の情景を髣髴させるとともに、当時を文化・風俗を知る重要な資料となっている。