湛快 (Tankai)
湛快(たんかい、康和元年(1099年) - 承安 (日本)4年(1174年))は、平安時代後期の熊野本宮大社の社僧で18代熊野別当。
15代熊野別当長快の四男。
生涯
1137年(保延4年)、法橋に叙せられる。
本宮在庁・修理別当・権別当職などをへて、1146年(久安2年)18代熊野別当に任じられた。
以後26年間の別当在職。
この間、鳥羽天皇・後白河天皇両上皇の熊野御幸を20回先導している。
また、この間に法印権大僧都に到った。
熊野神社を石清水八幡宮と同等の地位まで昇格させた。
湛快は熊野本宮にあって田辺に進出し別宮として新熊野社(現在の闘雞神社)を設け、日高郡進出の足がかりをつかんだ。
平氏との関係が深い。
1159年(平治元年)に平治の乱が起こった際、ちょうど二タガワノ宿(タノベノ宿の別名)に滞在していた熊野参詣中の平清盛らに対し鎧7領と弓矢を提供した。
湯浅宗重とともに急いで帰京することを勧めた(『愚管抄』)。
また、新宮別当家の後継者の1人である弓矢の達人・行快(源為義の外孫)に嫁して2人の息子(尋快・琳快)を儲けていた自分の娘がいた。
彼女が平忠度に嫁入ることを認めている。
熊野別当家は嫡流の新宮別当家と庶流(分家)の田辺別当家にわかれた。
共に競いつつ熊野三山の経営にあたった。
1173年(承安 (日本)3年)、湛快は別当職を権別当の行範(新宮別当家当主)に譲って隠居。
翌年死去した。