源俊房 (MINAMOTO no Toshifusa)
源 俊房(みなもと の としふさ、長元8年(1035年) - 保安 (元号)2年11月12日 (旧暦)(1121年12月23日))は、平安時代後期の公家。
父は源師房、母は藤原道長の娘藤原尊子。
子に勝覚、仁寛(真言宗立川流_(密教)の祖)、源師頼、源師時、源師俊、源方子、藤原宗俊室などがいる。
堀川左大臣とも称される。
1045年(寛徳2年)藤原頼通の養子として元服。
後冷泉天皇から鳥羽天皇まで5代の天皇に仕え、検非違使別当・左衛門督・左近衛大将参議・大納言・右大臣を経て1083年(永保3年)従一位左大臣に至った。
朝廷での儀式に関する有職故実にくわしく、村上源氏の最盛期を築いたが、1113年(永久 (元号)元年)子で後三条天皇の皇子輔仁親王の護持僧をつとめた仁寛が鳥羽天皇の暗殺を企てたとされ、弟の源顕房に村上源氏の主流を譲った。
正室の後朱雀天皇皇女娟子内親王とは始め許しもなく密通・駆け落ち騒動を引き起こし、内親王の弟尊仁親王(後三条天皇)の怒りを買ったが、彼女との間に子はできなかった。
その後源実基女、源基平女らとの間に多くの子女をもうけ、そのうち娘の方子は藤原長実と結婚、藤原得子を産んでいる。
俊房の日記は「水左記」と題され、現在判明しているところ1062年(康平5年)から1108年(天仁元年)まで綴られた。
また能書でも知られた。