源光信 (MINAMOTO no Mitsunobu)
源 光信(みなもと の みつのぶ、寛治4年(1092年)?- 久安元年10月(1145年)は、平安時代末期の武士。
清和源氏源頼光流。
出羽国守源光国の長男。
母は左衛門尉家実女。
兄弟に源光保、源全らがある。
室は藤原佐実女など。
源光基、源光重(源仲政の養子)、源光長らの父。
従五位上、検非違使、左衛門尉。
通称は出羽判官、土佐判官。
鳥羽院四天王の一人。
土岐光信とも記される。
白河院・鳥羽院両院に仕えて北面武士、検非違使を務めた。
大治 (日本)4年(1129年)正月、前年に武者所を殺害したとして六角獄舎に収監されていた郎党が赦免された際、この郎党の帰属を主張した源為義と争論となった。
互いに兵を挙げてこれの奪取を図ったことから合戦に発展しかけた(『中右記』)。
白河院崩御後の同年11月に南都で仏師長円襲撃事件が起きた。
光信は真っ先に興福寺内を捜索した。
また同年、21年前に出雲で平正盛に討伐されたはずの源義親を名乗る者が京に現れた。
鳥羽上皇の意向で前関白藤原忠実の屋敷に匿われたが、大治 (日本)5年(1130年)、もう一人の義親が大津から現れ、10月、この二人は四条大宮にある光信の邸宅の前で合戦を演じた。
結果、大津義親が破れ贋物だと自白したが、怒った光信は11月に騎馬武者20、徒歩武者4、50名を率いて義親を忠実の屋敷に夜襲し、その郎党十数人とともに殺害した。
この事件で光信は罪を問われて土佐国へ流刑となったが、事件の背後には白河院没後の故院勢力(平忠盛ら)と摂関家および太上天皇との争いがあった。
康治2年(1143年)、配流を解かれ本位に復したが、2年後の久安元年(1145年)に53歳で頓死した。