源国基 (MINAMOTO no Kunimoto)
源国基は、
平安時代末期の摂津源氏の武将。
源国直の次男。
能勢国基。
能勢氏の祖。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての摂津源氏の受領。
源頼国の四男源実国の玄孫。
土佐国守。
源国基 (能勢国基)
源国基(みなもと の くにもと、生没年不詳)は、平安時代末期の武将。
初名、国光。
摂津源氏の流れを汲む源国直の次男。
能勢氏の祖。
「能勢」を号した為、能勢国基とも記される。
従五位下、右兵衛尉。
号は兵衛大夫。
子に能勢蔵人国康、能世判官代源国能、能世三郎基直らがある。
『寛政重修諸家譜』によると建久二年(1191年)に摂津国能勢郡山邊の鷹爪館に居住し能勢氏の祖となったという。
源国基 (土佐守)
源 国基(みなもと の くにもと、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけての摂津源氏の受領。
中宮職行頼の八男。
官位は、従五位下、土佐国守。
『吾妻鏡』文治2年(1186年)8月27日辛丑の条に「土佐国守国基は二品(源頼朝)の御一族なり。殊に断金の契約有り」と記されている。
頼朝とは非常に親密な間柄であったことが窺える。
そして同条には、伊勢国玉垣御厨の領主権を与えられた事や家人である渡辺党の武士、刑部丞景重を鎌倉に置くよう命じられた事などが記されている。
また、貞応3年(1224年)には摂関家の使いとして京都より鎌倉に下り滞在した際の様子が記されている。
なお、上記の能勢国基と同一人物として扱われている場合があるが、『吾妻鏡』に見える父および子の名前や年代、そして『尊卑分脈』の記述から能勢国基とは、同じ摂津源氏ではあるが別人である。