源師光 (MINAMOTO no Moromitsu)
源師光(みなもとのもろみつ)
清和源氏源頼光流・源頼国の子。
村上源氏源俊房流・源師頼の子。
源師光(清和源氏)
源師光(みなもとのもろみつ、生没年不詳)は、平安時代後期の官人・歌人。
本名国仲。
一時期、国保と改名していた。
源頼国の八男で、母は尾張国守藤原中清女。
源頼綱の同母弟。
子に源実俊・満隆らがいた。
福島師光とも呼ばれる。
少内記、主殿権助、蔵人、衛門府を歴任する。
晩年は相模国守・信濃国守を務め、最終位階は従五位下だった。
和歌と漢詩が得意で、漢詩では康平4年(1061年)七条亭作文会、康平6年9月晦日詩会などに出席。
和歌でも承保2年(1075年)白河天皇が側近を集めて催した私的な性格の内裏歌会にも出席して和歌を詠んだ。
『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』に各1首入集する。
特に『金葉和歌集』に採用された和歌(二度本歌番号537)は、藤原頼通家歌合に招待されなかった遺恨を藤原公実に訴えたもので、歌人としてのプライドの高さが伺える。
後代、三男満隆の子孫が福島氏として存続した。
源師光(村上源氏)
源師光(みなもとのもろみつ、生没年不詳)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけての公卿・歌人。
小野宮と号した。
出家後の法名は生蓮。
源俊房の孫。
父は大納言源師頼。
母は大納言藤原能実女。
子に源具親・源俊信・尋恵・澄覚・後鳥羽院宮内卿らがいた。
父師頼の弟子だった藤原頼長の猶子になったことに加えて、自身の無才のため官途は振るわず、正五位下右京大夫にとどまった。
永暦元年(1160年)以前に歌会・百首歌を主催した。
以後藤原清輔・平経盛・藤原実国・源通親・九条兼実らが主催した平安末期の主な歌合に出席した。
また養和元年(1181年)頃の一品経和歌懐紙にも参加した。
鎌倉時代初期に出家したが、これとほぼ同時期に奈良に移住した。
師光はそこで往生講会・二十八品歌勧進などを行い、『南都集』(散逸して現存せず)を撰した。
その後も藤原経房家歌合、守覚法親王家五十首、石清水歌合などに出席した。
正治2年(1199年)初度百首の人数に入り、千五百番歌合では判者の一人にも選ばれた。
『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に27首入集している。
『月詣集』『玄玉集』『歌仙落書』『治承三十六人歌合』にも入り、当時の歌壇での評価は高かった。
家集『師光集』及び私撰和歌集『花月集』(散逸して現存しない)もある。