源師時 (MINAMOTO no Morotoki)

源 師時(みなもと の もろとき、承暦元年(1077年) - 保延2年4月6日 (旧暦)(1136年5月8日))は、平安時代後期の公卿・歌人。
村上源氏で左大臣源俊房の次男。
正三位・中納言。

経歴

寛治2年(1088年)に12歳で叙爵。
17歳で昇殿を許された。
嘉承2年(1107年)皇后宮職になり、保安 (元号)4年(1123年)蔵人頭を経て参議となる。
皇后宮権大夫を兼任(47歳)。
大治 (日本)元年(1126年)従三位。
長承3年(1134年)太皇太后宮権大夫になり、翌年(1135年)正三位に叙された(59歳)。

白河上皇・鳥羽上皇両院の政務諮問官として厚く信任され、鳥羽離宮・六勝寺などの造営にも携わった。
また令子内親王(鳥羽天皇の准母)に皇后宮権亮・皇后宮権大夫・太皇太后宮権大夫として三十年余りの間仕えた。
保延2年(1136年)4月6日出家・同日薨去した。享年60。

彼が11歳頃から没年までつけていた日記は、現在では『長秋記』として翻刻され院政期の重要な史料として伝わっている。

人物

詩歌に優れ、和歌では『金葉和歌集』に4首、『千載和歌集』に3首、『新古今和歌集』に1首入集。
また兄源師頼とともに『堀河百首』の詠み手の一人である。
漢詩においても師である大江匡房から「この君は、詩の心得て、よく作り給ふ」『今鏡』と賞賛されている。

妻を6-7人持ち、毎晩のようにそれぞれの妻の所へ一晩中渡り歩き、正午頃まで朝寝をしていたこと。
また妻同士も仲が良く、言葉を交わして交際していたという逸話がある(『今鏡』)。

[English Translation]