源明国 (MINAMOTO no Akikuni)
源 明国(みなもと の あきくに、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。
本名は行光。
源頼綱の長男。
弟に源仲政、源国直らがあり、子に源行国、源経光、猶子に源有頼、源盛隆らがある。
官位は従四位下、蔵人、検非違使、左衛門尉、下野国守(『尊卑分脈』)。
「多田」を号したことから多田 明国(ただ の あきくに)とも記される。
父頼綱より多田荘を継承し、父祖に続いて摂関家に近侍した。
白河院蔵人、堀河天皇の六位蔵人を務めた後、検非違使、左衛門尉を経て永長元年(1096年)11月に従五位下に叙され、翌12月には藤原師通家の侍所別当(職事)に任じられる(『後二条師通記』)。
その後、長治2年(1105年)に京中において郎党を殺害したことにより弓庭に拘禁された(『殿暦』)。
天永2年(1111年)正月の除目で下野国守に任じられるが、以下のことが原因で佐渡島へ流罪となった。
同年主君である藤原忠実の命令で美濃国の荘園に下向した際、道中で無礼者を咎めたことから私闘に発展し、信濃国守橘広房、源為義の郎党など3人を殺害するに至った。
佐渡に流された後でも武威を振るって国司の任務を妨げ、大治 (日本)3年(1128年)佐渡国守藤原親賢は、明国を他国に移すよう朝廷に請うている。
翌年(1129年)明国は召還されたが、その後の彼の動向は不明である。