源為義 (MINAMOTO no Tameyoshi)
源 為義(源爲義、みなもと の ためよし)は、平安時代末期の武将。
源義家を祖父に持つ河内源氏の棟梁。
源義親の子で源義忠(一説に源義家)の養子。
従五位衛門府検非違使。
世に六条判官という。
経歴
養父(実は叔父)源義忠(源義家の四男)の暗殺事件のあと河内源氏の家督を継いたという。
天仁2年(1109年)、義忠暗殺の嫌疑を受けた一族(大叔父)の源義綱(義家の弟)追討を白河天皇に命じられ、これを伏す。
(これは冤罪で義忠暗殺の真犯人は義家の弟の源義光とされる)功により左衛門尉となる。
のち検非違使となり六条判官と呼ばれる。
永久 (元号)元年(1113年)、永久の強訴に際して白河院の命を受けて出動して衆徒を防いだ。
康治2年(1143年)には大殿こと藤原忠実に溺愛されていた藤原頼長に接近、主従関係を結び、久安6年(1150年)、藤原頼長のために頼賢と兵を率いて関白藤原忠通の別邸を襲って氏長者の印たる朱器台盤を奪う。
先祖の例に習い、摂関家と密接した関係にあった事がわかる。
久寿元年(1154年)、子である八男の源為朝が鎮西の惣追捕使を僭称、九州で乱行。
鳥羽法皇の怒りを買い、久寿2年(1155年)4月、為義は左衛門大尉と検非違使を解官され、家督を嫡子源義朝に譲った。
義朝とは不仲であったとされる。
保元元年(1156年)、保元の乱では、為義は子の源頼賢、為朝ら一族を率いて太上天皇方につき、天皇方の義朝、平清盛らと戦うが敗れる。
敗戦後、東国へ落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し、出家する。
義朝は自らの戦功に代えて、為義と弟たちの助命を願うが許されず、7月30日 (旧暦)に源義朝によって斬首された(場所は、『兵範記』では船岡、『保元物語』では七条朱雀)。
河内源氏の棟梁に関して
源義忠の死後、家督継承が源為義、源義朝、源頼朝と継承されたとするのは、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く前後あたりからのことであり、為義在世中は棟梁として存在していたかは定かではない。
一部に源義家が後継指名をしていたとする史料があるが、後世の作で当時の史料からは確認できない。
また、為義と同じく、源義親の子で長兄である源義信や、義忠の次男の源義高 (左兵衛権佐)、義忠の兄で義親の弟の源義国らも当時、河内源氏の勢力の一部を継承しており、義忠後継を自任していたことがわかっている。
為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族
源義国…源義家三男(従五位下加賀介)…足利氏初代足利義康の父。
源義信…源義家次男の源義親の長男、為義の実兄(従四位下左兵衛佐)
源義高 (左兵衛権佐)…源義家四男で前棟梁の義忠の次男(従四位下左兵衛権佐)
その他
源義光…源義家の三弟(従五位下刑部少輔)
源義時…源義家の六男(無位無官)河内源氏本拠地の石川荘相続
人物
平氏が白河院、鳥羽天皇に重用されるのに対して、為義は源頼義、義家と父祖代々任じられた陸奥国守任官の要望も却下され、30余年もの間、左衛門尉のまま冷遇された。
それは院政誕生後も相次ぐ家督争いでその風下に立つ事となってしまった摂関家との密接な関係を続けていたのも原因の一つであるが、その事に気づく事無く、ライバルの平氏が摂政藤原忠通と親しかった事に対抗して、父の忠実に溺愛され、有望と見た弟の藤原頼長に接近し、藤氏長者獲得等に貢献した。
経済的には河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏本拠地伝来の財産があり裕福であった。
また、一族の将来を慮り多くの子供をつくり、養子や猶子も多く、彼らを全国に配置して衰退していた源氏を盛り返そうと為義なりに考えていたことはわかっている。
しかし、為義らと運命共同体を成す事となった頼長は確かに学識高く、比類する者(いたとしたら、藤原信西ぐらいであったろう)なきほどであったが、酷薄で融通をつける事を知らず、園社神人と騒動を起こした平氏に厳重な処罰を主張する等周囲から反発を買い、時の近衛天皇にも嫌われていた。
折角得た内覧職も後白河天皇即位と共に停止され、失脚の憂き目を見る。
一族についても、次男の源義賢と孫の源義平の対立等内輪揉めが絶えず、前述の久安6年(1154年)年の解官・隠居で既に下野守などに任官した長男、源義朝が家督を次ぐとますます多くの源氏与党の人心は彼から離れ、才幹豊かな義朝に靡いてしまう。
それが親子の仲を冷めたものにしてしまったといわれ、為義は義賢を後継として遇した。
それらの結果が保元の乱であり、潔い最後を遂げた事はかろうじて為義の名誉を救ったが、上記のような遠謀は無駄になってしまった。
これらの事績からも明らかなように政戦両略の才に乏しく、偉大な祖父義家、勇猛だった実父義親、政略に長けた養父義忠などの父祖に比較すると、源氏の棟梁というには頼りない人物であった。
時代の状況も悪かったが、彼の能力不足も源氏の凋落の要因であったことは否めない。