源義仲 (MINAMOTO no Yoshinaka)
源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。
通称・木曾次郎。
木曾 義仲の名でも知られる。
「朝日将軍(旭将軍)」と呼ばれた。
清和源氏の一族で、河内源氏の流れを汲む。
父は源義賢。
源頼朝・源義経とは従兄弟にあたる。
幼名は駒王丸。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破って上洛する。
長年の飢饉と平家の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安回復の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。
法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征夷大将軍となり(近年では征東大将軍説が有力)、その10日後に源頼朝が送った源義経の軍勢によって近江国粟津で討たれた。
生い立ち
祖父の源為義と伯父の源義朝が対立的関係になった時、父為義の命を受けて本拠地の京都から関東に下った源義賢の次男として武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に生まれる。
関東での源為義派の父義賢と、伯父の義朝の対立の過程で、父の義賢が甥の源義平に討たれた後、幼少の義仲は 畠山重能、斎藤実盛らの援助で信濃国(長野県)に逃れ、木曾谷の豪族、中原兼遠の庇護下に育ち、通称を「木曾次郎」と名乗る。
挙兵と上洛
治承4年(1180年)、平清盛と対立していた後白河天皇の皇子である以仁王(高倉宮・三条宮)が全国に令旨を発し、叔父源行家が全国で挙兵を呼びかける。
摂津源氏の源頼政が養子にしていた義仲の兄の八条蔵人源仲家は、5月の以仁王挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している。
同年9月7日、義仲も呼応して挙兵した(市原合戦)。
翌年の治承5年(1181年)6月、越後国から攻め込んできた城助職を信濃川横田河原の戦いで破り、一時上野国(群馬県)へ進むが、関東地方で挙兵した源頼朝とは合流せずに北陸道に進んだ。
寿永元年、北陸では逃れてきた以仁王の子を北陸宮として擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、京の重要な食料供給源である北陸を勢力圏として固めた。
寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた源義広 (志田三郎先生)と、頼朝から追い払われた源行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人を庇護した事で頼朝と義仲は衝突寸前となる。
義広と行家は両名とも義仲の叔父であり、義仲の兄が仕えたあき子内親王に縁があった。
『平家物語』『源平盛衰記』では武田信光が娘を義仲の嫡男源義高 (清水冠者)に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。
3月に嫡子源義高 (清水冠者)を人質として鎌倉に送る事で両者の対立は一応の了解がつく。
5月、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦い(富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で10万とも言われる平維盛率いる平氏の大軍を破り、勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、怒濤の勢いで京都を目指して進軍する。
7月22日に義仲が比叡山に入ったという噂が広まり、25日に平氏は安徳天皇を擁して都を落ち、西国へ逃れた。
後白河法皇は西国へ伴おうとする平氏から身を隠し、比叡山に登った。
入京
7月27日、後白河法皇は義仲の軍勢に属する山本義経の子、錦部冠者義高に守護されて都に戻る。
『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書いている。
義仲は翌日28日に入京、行家と共に後白河法皇の御所に参上し、平氏追討を命じられる。
2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。
法皇は勲功の第一を頼朝、第二が義仲、第三が行家として、あくまで義仲を頼朝の代官と位置づけ、頼朝に上洛を促す使者を送って義仲を牽制した。
8月6日には平家一門の60余名が官職から追放され、11日に後白河法皇より義仲は従五位下左馬頭・越後国守、行家は従五位下備後国守に任ぜられる。
『平家物語』ではここで義仲が朝日の将軍という称号を得て、義仲と行家が任国を嫌ったので義仲が源氏総領家にゆかりのある伊予国守に、行家が備前国守に移されたとしているが、義仲と差があるとして不満を示したのは行家のみで、義仲が忌諱した記録は見られない(『玉葉』8月11日条)。
8月14日、義仲は新帝即位に介入し、今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であるとして、この宮を天皇として即位させるよう朝廷に執拗に申し立てた。
しかし一介の武士に過ぎない義仲の意見が受け入れられるはずもなく、朝廷では義仲を制するため御占が数度行なわれた結果、8月20日に高倉天皇の皇子で安徳天皇の弟四之宮(後鳥羽天皇)を即位させた。
このあたりから伝統や格式を重んじる後白河法皇や貴族社会は知識や教養がまるでない義仲を「粗野な人物」として厭うようになっていった。
山村に育った義仲は、平家一門や子供時代を京都で過ごした頼朝とは違い、そうしたものに触れる機会が存在しなかったのである。
また義仲は京都の治安回復にも失敗したとも言われる。
連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する。
義仲は上洛してすぐに、主立った武士達に都を守護する配置を決めて警備に当たらせたが、元々義仲の軍勢は諸国で蜂起した武士たちの寄り合い所帯であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になかった。
後白河法皇は京都から厄介払いすることを目的として、たびたび義仲に西国へ逃れた平氏の追討を命じるようになった。
法皇は自ら義仲に刀を下賜して出陣を促し、やむなく義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して後白河法皇を牽制しながら、9月20日に平氏追討のために播磨国へ向かって出陣した。
法皇襲撃
しかし海戦に不慣れな木曾源氏軍は、備中国の水島の戦い(岡山県倉敷市)で平氏水軍に惨敗。
義仲軍は閏10月15日に京都へ逃げ帰ってきた。
義仲の出陣中に朝廷ではしきりと頼朝の上洛を促し、頼朝はこれを断って東日本からの年貢を都まで送るかわりに、東国の支配権を認めさせており(寿永二年十月宣旨)、義仲は都に戻ってからこれに抗議している。
頼朝の脅威を恐れる義仲は、頼朝追討の院宣を得ようとしたり、平氏が勢力を盛り返したのを受けて法皇を伴って北国行きを計るも拒否される。
義仲と不和となった行家は11月8日播磨国へ平氏追討に向かってたちまち敗れたのち、都に戻らず姿をくらませた。
法皇にはもはや義仲を受け入れるつもりはなく、義仲に対抗すべく比叡山や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などを集め、堀や柵をめぐらせ法住寺の武装化を計る。
義仲陣営の近江源氏や摂津源氏など法皇方に付く者も出てきて、数の上では義仲側を凌いだ。
九条兼実は義仲を挑発する法皇の行為を「義仲たちまちに国家を危うくし奉る理なし。
唯君城を構へ兵を集め、衆の心驚かさるる条、専ら至愚の政なり。
これ小人の計より出づるか」
「ひとえに義仲に敵対せらるるなり。
はなはだ以て見苦し。
王者の行いにあらず」と終始批判している。
11月7日、法皇は義仲に再度平氏追討令を出して、京都から出て行くよう命じたが、頼朝の動きを警戒する義仲が承伏できるものではなかった。
義仲は「君(法皇)に立ち向かう心はありません」と神妙に対応した。
しかし11月17日、法皇は改めて義仲に京都退去を要求し、応じない場合は「追討の院宣」を下すと通告。
18日には後鳥羽天皇が法住寺殿へ行幸、公卿らも参内して義仲追討の院宣が下されようとしていた。
19日、ついに爆発した義仲は法住寺殿を襲撃して火を放ち、法皇の徴兵に積極的に関与した天台座主の明雲や後白河法皇の皇子である円恵法親王など百余人を殺害、裸形の女房らが逃げまどう中、法皇と後鳥羽天皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉して勝ち鬨の声をあげ、政権を掌握した。
義仲は天台宗の最高の地位にある僧の明雲の首を「そんな者が何だ」と川に投げ捨てたという(『愚管抄』)。
『平家物語』で義仲が藤原基房(前関白)の娘藤原伊子を強引に自分の妻にしたという部分は史料にはみられないが、義仲が11月21日、22日に基房と深く接触している事から、ありえた事と思われる。
11月28日には法皇に与した公卿44人を解官。
12月1日、院の御厩となり、さらに12月22日、基房の子でわずか12歳の松殿師家を内大臣摂政に任命させる。
12月15日には法皇に強要して鎌倉の源頼朝追討の院宣を出させている。
最期
寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉の軍勢が墨俣町を越えて美濃国へ入ったという噂を聞いて、義仲は大いに畏怖する。
1月10日には自らを征夷大将軍に任命させた(後世の編纂史料『吾妻鏡』『百錬抄』による。
同時代の日記『玉葉』『三槐荒涼抜書要』〔『山槐記』の抄出〕では1月15日に征東大将軍就任となっており、近年ではこちらの説が有力)。
播磨国の平氏との和睦工作を続け、法皇を伴って北国や近江への下向を計るが断念。
まもなく源範頼、源義経率いる鎌倉源氏軍が到着。
義仲は京都の防備を固めて鎌倉源氏軍との開戦に及んだが、法皇幽閉にはじまる一連の暴挙のため、木曾源氏軍の兵士は次々と敵前逃亡し、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。
義仲自身も1月20日、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にした(宇治川の戦い)。
「義仲天下ヲ執シ後60日ヲ経タリ」(『玉葉』)享年31。
義仲が戦死したとき嫡子・源義高 (清水冠者)は頼朝の娘大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれ、義仲の家系は絶えた。
義仲の妹である宮菊姫は北条政子の猶子となって京都にいたが、元暦2年(1185年)5月1日、彼女の名を借りた領地横領の問題に関して頼朝から鎌倉に呼び出されている。
政子が特に同情していたという。
宮菊は横領に関わりない事を弁明し、憐れんだ頼朝から美濃国の領地を与えられ、義仲恩顧の信濃国の御家人たちに宮菊を尊重するよう命が出されている(『吾妻鏡』)。
戦国時代 (日本)の木曾氏は義仲の子孫を自称している。
官職位階履歴
※日付=旧暦
寿永2年(1183年)
8月11日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。
越後守兼任。
8月16日、伊予守兼任。
越後守の任替。
10月、左馬頭辞任。
10月13日、従五位上に昇叙。
伊予守如元。
寿永3年(1184年)
1月2日、従四位下に昇叙。
昇殿を許される。
伊予守如元。
1月10日、征夷大将軍宣下(『吾妻鏡』『百錬抄』による。
『玉葉』『三槐荒涼抜書要』によれば、1月15日に征東大将軍宣下)。
墓所
義仲の墓所は、室町時代に没地近くに開かれた朝日山義仲寺(滋賀県大津市馬場)にある。
義仲寺は江戸時代の俳人松尾芭蕉の墓があることでも有名な寺である。
芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬って欲しいと言っていた。
首塚は京都市東山区の法観寺にある。
また、長野県日義村の徳音寺には、義仲の霊廟と五基並んだ一族の墓が建立されている。
その他
生誕地
義仲の生誕地は、現在の埼玉県比企郡嵐山町だと言われている。
現在は生誕地には鎌形八幡宮が建ち、義仲の産湯を汲んだとされる清水が残されている。
義仲四天王
義仲の下で活躍した、今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠の4人の武将を義仲四天王という。
容貌
「眉目形はきよげにて美男なりけれども、堅固の田舎人にて、あさましく頑なにおかしかりけり」
「色白う眉目は好い男にて有りけれども立ち居振る舞いの無骨さ、言いたる詞続きの頑ななる事限りなし」(『源平盛衰記』)
銅像
富山県小矢部市の護国八幡神社に騎馬姿で手綱を持った義仲の銅像がある。
長野県木曽郡日義村(現・木曽町)の歴史資料館「」の中庭に、巴御前と並ぶ銅像が立つ。
唱歌・地名
義仲は「信濃の国」(長野県歌)に、県出身者の一人として詠われている。
また義仲が育った木曽郡日義村は、「朝日将軍義仲」に由来して1874年に命名された地名であった(日義村は2005年11月1日から木曽町となり消滅)。
祭事・催事
清和源氏発祥の地、兵庫県川西市で毎年4月に行われる源氏まつりの「懐古行列」では、先祖源満仲を始めとする清和源氏累代の武将達と並び騎馬武者姿の義仲が登場する。
神楽
胡四王神楽。
岩手県指定無形民俗文化財。
早池峰岳流山伏神楽の弟子神楽。
慶長3年(1598年)幕銘の獅子頭が伝承されており、そのころから始まっていた。
「岩手県立博物館平成16年度伝統芸能鑑賞会/岩手県文化財愛護協会第57回岩手郷土芸能祭」に詳しい。