源義国 (MINAMOTO no Yoshikuni)

源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。
源義家の四男。
新田氏・足利氏両氏の祖。

経歴

源義家の四男である。
長男源義宗が早世し、次男源義親が西国で反乱を起こすと、兄の三男源義忠とともに次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。
しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢にあわないと義家に判断されて後継者からはずされていった。

叔父義光との対立(常陸合戦)には敗れ、常陸国は義光流の佐竹氏に譲ることになったが、足利庄を成立させるなど、下野国に着実に勢力を築いていった。
晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、荒加賀入道と言われた。

生涯

嘉承元年(1106年)、叔父源義光・従兄弟源義業と常陸国において合戦する。
いわゆる「常陸合戦」。
その結果、義国は勅勘を蒙り、父義家に捕縛命令が下りる。
また、義光及びその与党、平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。

大治 (日本)2年(1127年)、次男・源義康が誕生。

康治元年(1142年)、足利にある伝領を鳥羽天皇御願寺の安楽寿院に寄進し足利庄として成立させる(八条院領から大覚寺統へ伝領)。

康治2年(1143年)、梁田郡内の開発私領を伊勢神宮に寄進し梁田御厨を立券。

久安5年(1149年)、義国の郎党、京洛において乱闘し、義国が責任を問われる。

久安6年(1150年)、右近衛大将大炊御門藤原実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙る。

久寿2年(1155年)、長男新田義重の新田荘の館で死去。

墓所は鑁阿寺(栃木県)にある。

生没年

義国の生年、没年は諸説があって定かではない。
通説では、寛治5年(1091年)生まれ、仁平4年(1154年)出家、久寿2年(1155年)6月26日 (旧暦)に死去となっている(尊卑分脈)。

参考に他の生年説を紹介

応徳元年(1084年)説 『系図纂要』記載。

寛治3年(1089年)説 上記の説の異説。
小説などでは採用が多いが詳細は不明。
採用している史書は特にない。

永保2(1082年)説 足利鑁阿寺所蔵の「新田足利両家系図」に、義忠没時の義国の年齢を18歳と記している。
昭和3年(1928年)発行の『足利市史』では、これを28歳の誤りであるとし、逆算して永保2年(1082年)誕生としている。
採用している史書「足利市史」。

子女

長男は源義重(新田氏の祖)母は上野介藤原敦基女、あるいは足利成綱女
次男は源義康(足利氏の祖)母は信濃守源有房女
三男は源季邦

子孫

末裔には山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏、世良田氏などがある。
鎌倉幕府倒幕時の鎌倉攻めの総大将新田義貞、室町幕府を開いた足利尊氏や桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元、室町前期に室町幕府の基礎を固めた斯波義将、畠山満家、応仁の乱の西軍、東軍の大将であった細川勝元、山名宗全らも彼の末裔である。

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