源義忠 (MINAMOTO no Yoshitada)
源 義忠(みなもと の よしただ)は平安時代後期の武将。
清和源氏の中の河内源氏四代目棟梁。
源義家の死後河内源氏の家督を相続、伊勢平氏と和合して勢力の維持を図ったが、同族に暗殺された。
義忠はこの時代の源氏の棟梁でありながら暗殺されたことから存在感はあまりない。
書籍などでは記載がないことが多い人物で、棟梁でありながら略系譜などでは割愛されることすらある。
義家の亡き後の源氏の棟梁となり天下に栄名を博したが、暗殺によって前途を断たれ結果的に源氏の勢力を守りきれなかったこともあり、後世の評価も低い。
河内守任官
河内源氏三代目棟梁・源義家の四男として香炉峰の館で誕生。
兄弟に「悪対馬守」といわれた猛将の源義親、「荒加賀入道」といわれた猛将の同母兄弟源義国らがいる。
河内源氏の棟梁の中で河内守に任官した最後で、以降の棟梁は河内守にはなっていない。
義忠は義家の父源頼義に似ていたと義家に評された。
若年より帯刀長・河内守・検非違使などを歴任した。
その背景には父源義家の力があったものと思われる。
朝廷も義家を抑圧しつつも恐れ、懐柔策として義忠を河内守などの要職に就けたともいわれる。
近年まで、義忠は兄の義親・義国の二人が謀反や乱暴などの理由で朝廷から討伐されたり流罪に処されていた為に、父義家の死後急遽家督を継いだとされてきた。
しかし近年の研究の結果、義忠が義家の後継者に選ばれた時期は今までの説より早いという説が有力になってきている。
義忠が上国の河内守であるのに、今まで家督に最も近いのに謀反を起したとされていた義親は下国の対馬国でしかなかった。
義国は後年、加賀国になるが、それでも河内守に比較すると遥かに下位の官職である。
このことからして、義家が早い時期から義忠を河内守として河内源氏の本拠地たる河内国の長官になる運動をしていたと考えると、義忠後継が早い時期に決まっていたものとされる。
しかし一方で、朝廷が源氏内部に事件を起すために兄を差し置いて弟に高位要職を与えたという説もある。
義親の謀反も、弟の方が中央に近く河内源氏のゆかりの地である河内守になったことへの不満が原因であったという説もある。
この説もこの後の源氏の衰退を考えるうえで重要である。
家督継承
1106年に源義家が死去すると、河内源氏はその勢力を縮小せざるを得なかった。
また、義忠の兄、義親が西国で叛乱を起こし新興勢力で義忠には舅にあたる伊勢平氏の平正盛が討つという事態となった。
河内源氏より伊勢平氏が優勢になり始める。
朝廷でも白河上皇が院政を行い、摂関家とゆかりの深い河内源氏に替えて伊勢平氏を露骨に登用するようになる。
明らかに河内源氏は衰退期を迎えた。
義忠は若年ながら河内源氏の屋台骨を支えるべく、僧兵の京への乱入を防ぐなど活動する。
また、新興の伊勢平氏と折り合いをつけるべく、平正盛の娘を妻にし平家との和合をはかり、平忠盛の烏帽子親となるなど、親密な関係を築いた。
そして、院政にも参画しつつ、従来からの摂関家との関係も維持すべく努力した。
その結果、「天下栄名」と評せられる存在となった。
しかし、河内源氏の中では新興の伊勢平氏との対等の関係を結んだ義忠のやり方に不満も多く、また、伊勢平氏と和合することで院政に接近した義忠が勢力を伸ばしたことを快く思わない源氏の一族の勢力も存在した。
また、義家にくらべ武威に劣る義忠を軽んじ、自らが義忠に取って代わろうとする勢力も存在した。
暗殺
義忠の叔父の源義光は義忠の権勢が高まるのに不満を感じ、自らが河内源氏の棟梁になることを望み、家人平成幹に義忠を襲わせた。
義忠は鹿島三郎との斬りあいで重傷を負い、それが元で死去した。
鹿島三郎は義光の弟の園城寺の僧侶快誉の下へ逃げて保護を求めたが、快誉によって殺害された。
義忠の暗殺は当初、叔父源義綱の子・源義明とその家人藤原季方の犯行とされた。
そのため、義忠の養子源為義は義綱の一族を甲賀山に攻め、義綱の子らは自決し、義綱も捕らえられ佐渡へ流された。
しかしその後になって、もう一人の叔父源義光の犯行であったことがわかった。
これにより河内源氏は義忠・義綱という二人の実力者を失い、義光も暗殺事件の黒幕であることが発覚したため常陸国に逃亡。
都には幼い為義が残されることとなり、後見人のいない源氏は衰退した。
死後
義家・義親・義忠・義綱と実力者を失い、河内源氏は源義光・源義国・源義時・源義隆を残すだけになった。
義国は事件を起し関東の地で蟄居の身であった。
また関東で常陸から勢力を広げる叔父義光と合戦に及ぶなど、義光との仲は険悪であった(義忠と義国は連合して叔父義光に対抗していたとする説もある)。
そのため、河内源氏の勢力は関東でも徐々に衰え始める。
義時は義忠から河内国の石川庄を与えられていたがその勢力は小さかった。
義隆は無位無官で幼少でもあった。
よって義忠の死後は為義が河内源氏の棟梁となった。
しかし、為義も幼少であったことと、実父の源義親ほどの武勇も養父義忠ほどの政治力もなかったために、河内源氏は伊勢平氏の蔭に隠れてしまう。
河内源氏の復興は為義の子源義朝に託されることになるがそれも叶わず、その義朝の子源頼朝を待たなくてはならない。
義忠の死後は平氏全盛となり河内源氏は雌伏を余儀なくされた。
子孫
養子:源為義(義親の五男、河内源氏五代目棟梁)
長男:河内経国(河内源太経国)
源義国の家人、源義朝の側近として保元の乱に参陣。
河内氏。
経国の長男:源盛経 (河内源氏)(稲沢小源太盛経、稲沢氏祖)
経国の次男:蓮俊(比叡山延暦寺僧都)
次男:源義高 (左兵衛権佐)(従四位下左兵衛権佐兵庫助)
この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。
明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。
義高の長男:従五位上河内守源義成 (河内守)
義成の長男:伊予権介左衛門尉源義俊
三男:源忠宗(飯富源太忠宗) 上総国望陀郡に飯富庄を設立。
忠宗の長男:源季遠か?
忠宗の孫:飯富季貞(通称:源大夫判官。
平家の侍大将。
満快流、甲斐源氏説など諸説あり。
飯富虎昌は子孫という。
飯富氏祖)
四男:源義清 (左京権大夫)(従五位下左京権大夫)
この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。
明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。
義清の長男:因幡介左衛門尉源義久
義久の長男:従五位下宮内少輔源義高 (宮内少輔)
五男:源義雄
この系統は代々源姓を名乗り、江戸時代の資料等にも苗字が源であり、姓も源とある。
明治維新以降もこの系統は源を今日的な意味の姓としている。
義忠の子孫に稲沢氏(経国の末裔)・飯富氏(忠宗の末裔)などがある。
義忠の子孫の多くは北面の武士または近衛府や東宮舎人となった。
一部には関東や河内にあって源平の戦いに参戦した者もいた。
特に名を成したのは三男の源忠宗の孫である源季貞である。
源大夫判官という曽祖父と同じ通称を名乗り、平家方の将として源平の合戦に参戦し、一族である石川源氏(義忠の弟の源義時の子孫)を討伐するなど活躍した。
平家が壇ノ浦で敗れ滅亡すると囚われるが、源氏の一族であったこと、一子飯富宗季が源氏方として軍功があったことから助命されている。
また、長男河内経国は源義国の庇護を受けていたようである。
義国の没後の保元の乱の時には義朝の側近として鎌田政清らとともに活動している(『保元物語』による)。
その子盛経の行動の詳細は不明であるが、その名に「盛」の一時があるように平家と関係があったようである。
一説には平家の家人で源季貞の指揮下にあり、のち源義仲との北陸での戦いに参加して篠原で戦死したともいう。
義忠の末裔は河内源氏棟梁の子孫でありながら反源氏的な行動が見られる(奥富敬之の説)。
その地位を継承できなかったためかもしれない(奥富敬之の説)。
また、義忠の妻が平忠盛の姉であることから、義忠の死後その子らが平忠盛の邸で養われていたとする研究もある。
それが事実であれば義忠の子孫が源氏ではなく平家に従った行動も理解できるだろう。
また、鎌倉時代初期の文人政治家で歌人・源氏物語の研究者の源光行・源親行親子も彼の子孫で、文人として繁栄した。
いずれにせよ、彼の子孫は河内源氏諸氏の中で異端な存在であったといえよう。
史料:『尊卑分脈』
年表
1083年 義忠誕生。
後三年の役が勃発。
1086年 白河上皇の院政が始まる。
1087年 後三年の役が終了。
1091年 源義家への荘園寄進を停止。
源義国が誕生か?
1092年 源義家の荘園設立を禁止。
1095年 北面の武士を置く。
1096年 義忠、帯刀長となる。
1097年 平正盛、荘園を上皇に寄進。
1098年 源義家、院への昇殿を許される。
義忠、左衛門尉となる。
1100年 義忠、河内守に任官。
1101年 源義親、乱暴狼藉を働き、召還される。
1102年 源義親、隠岐に流される。
1104年 義忠、左衛門権佐となり帰京。
1106年 源義国と源義光が常陸国で合戦し、両名に捕縛命令が出る。
義家は出家し、その後死去。
1107年 平正盛に源義親追討の命令が下る。
義忠、検非違使兼務。
1108年 源義親が平正盛に討たれ、叛乱が鎮圧される。
1109年 義忠が暗殺される。
注:義国の誕生であるがこの年に生まれたとする説も有力で、この説を採用すると義忠は義国の兄となる。
義家の子は、義宗・義親・義国・義忠・義時・義隆という順であるとするのが通説である。
しかし、個別に誕生年度を調べると、義宗・義親・義忠・義国となる。
また、義宗・義親の誕生の年は不明である。
義家の子で誕生した年がわかっているのは義忠だけである。