源義賢 (MINAMOTO no Yoshikata)
源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代末期の河内源氏の武将。
源為義の次男。
源義朝の異母弟。
源義仲の父。
生涯
保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。
長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。
翌年、滝口源備殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。
その後藤原頼長に仕える。
康治2年(1143年)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安3年(1147年)年貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている(『台記』久安4年1月5日条)。
平安京堀川の源氏館にいたが、仁平3年(1153年)父為義と不仲になり関東に下っていた兄の源義朝が、下野国に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。
上野国多胡郡を領し、武蔵国秩父地方の秩父重隆(畠山重忠の大叔父、河越重頼の祖父)の娘をめとる。
やがて、武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす。
久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって東国に下っていた甥の源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。
享年は30前後とされる。
義賢の子でこの時2歳の駒王丸は、畠山重能、斎藤実盛らの計らいによって木曾に逃れ、のちの源義仲となる。
義仲の兄源仲家も逃れ、源頼政の養子になっている。
史跡
埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。
近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。
なお、大蔵館の所在は現在の東京都世田谷区大蔵とする説もあり、義賢の墓と伝えられる「将軍塚」という石碑が残っている。
世田谷の大蔵は義平の居住地という説もある。