源通親 (MINAMOTO no Michichika)
源 通親(みなもと の みちちか、久安5年(1149年) - 建仁2年10月21日 (旧暦)(1202年11月7日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家政治家。
正二位内大臣に昇進して、村上源氏の全盛期を築いた。
「土御門 通親(つちみかど みちちか)」と呼ばれるのが一般的で、曹洞宗などでは『久我(こが)通親』と呼ばれている。
父親は内大臣源雅通、母は藤原行兼の娘。
親平家の公家としての通親
村上源氏嫡流に生まれた通親は後白河天皇の院政初期の保元3年(1158年)に従五位下に任じられた。
通親の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親も清盛の支援を受けた高倉天皇の側近として平家と関係を築いた。
清盛の弟である平教盛の婿になった通親は治承3年(1179年)に蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。
翌年の清盛による後白河法皇幽閉とその後の高官追放の影響を受けて参議に昇進、以仁王の乱追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、摂関家の九条兼実やその周辺(代表格が藤原定家)と対立している。
後白河院政の中枢に立つ
治承5年(1181年)正月、通親は従三位となって公卿に列した。
だが、それから一月も経たないうちに高倉上皇、次いで平清盛が亡くなり、通親は上皇の喪中を表向きに次第に平家との距離を取る様になっていった。
寿永2年(1183年)7月、平家が安徳天皇を連れて西国に落ちたときに通親は比叡山に避難した後白河法皇に同行し平家との訣別を表明した。
その後、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室であった藤原伊子を側室に迎えている。
これによって新帝の後見人の地位を手に入れる一方で、法皇の近臣としての立場を確立し新元号「元暦」選定などで、平家や義仲によって失墜させられた後白河院政の再建を担う事になった。
九条兼実・源頼朝連合との対立
文治元年(1185年)五月、平家が源義経によって滅ぼされると、義経は鎌倉にいる兄の源頼朝と対立する。
後白河法皇は義経に対して「頼朝追討」の院宣を出したものの、頼朝軍が入京して義経は逃亡してしまった。
頼朝は軍事力を背景に、諸国に守護・地頭を設置する事、自分の遠縁にあたる九条兼実を摂政に任じさせる事、「議奏」公卿制度導入などの要求を認めさせた。
中納言であった通親も議奏公卿に選ばれたものの、この改革が「武家政権樹立」への第一歩であることに気付いて憂慮した。
通親は法皇に勧めてこれらの改革を有名無実化させることに成功し、文治4年(1188年)には源氏長者に任じられ、その翌年には正二位となった。
建久元年(1190年)、頼朝が征夷大将軍を望んだときも法皇と通親は頼朝を右近衛大将に任じてやんわりと要求をかわしている。
だが、建久3年(1192年)に後白河法皇が崩御すると、一転して兼実が提案した頼朝への征夷大将軍任命に真っ先に賛同して頼朝への「貸し」を作ったのである。
法皇の死後、彼の娘である覲子内親王(宣陽門院)の後見に任じられてその莫大な財産の管理を命じられて、法皇死後もその政治的基盤の確保は怠る事はなかった。
「政界の黒幕」となる
その頃、後鳥羽天皇の宮廷には二人の有力な后がいた。
九条兼実の娘である中宮九条任子と通親の側室・藤原範子の連れ子で通親の養女であった女御源在子である。
建久6年(1195年)、在子が土御門天皇(後の土御門天皇)を生むと、この勢いを背景に兼実の政敵である近衛基通や故後白河法皇の近臣達と組んで九条兼実排除に乗り出した。
そして、頼朝や大江広元ら鎌倉幕府要人との和解に成功した通親は、建久7年(1196年)11月に兼実不在のまま朝議を開催して基通の関白任命を決議、兼実の失脚を確定させた。
建久9年(1198年)、後鳥羽天皇の退位と通親の孫である為仁親王の即位が実現して、新帝・土御門天皇の外祖父となった通親は大納言と院庁別当を兼任することになった。
人々は通親を「飛将軍」・「源博陸」(「博陸」は関白の唐名)と呼んで恐れた。
翌年、通親は右近衛大将就任を直前に「源頼朝急死」の一報を受ける。
本来であれば、国家の柱石たる頼朝のために喪を発して、その期間内は人事異動を延期する慣例になっていた。
しかし、通親は頼朝死去の正式発表前に自分の右近衛大将就任を繰上で発動して、同時に右近衛大将の推薦という形式で(次期将軍になるであろう)頼朝の嫡男源頼家の左近衛中将任命の手続きを取ってから「頼朝死去」の喪を発するという離れ業を演じた。
この年に通親は内大臣に昇進している。
後白河法皇・源頼朝は既に亡く、九条兼実も失脚した以上、朝廷・幕府・院――全てが通親の意向を重んじ、かつての摂関政治を髣髴とさせる状況を生み出したのである。
通親は和歌の才能にも優れ、和歌所寄人にも任じられて後の「新古今和歌集」編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導している(「新古今和歌集」など多くの和歌集に通親の和歌が採用されている。
だが、当代随一の歌人・藤原定家は個人的には通親の次男で撰者の1人・堀川通具と親しかったが、通親の政治的な振る舞いには激しく憎み「道鏡の再来」と憤っていたと言われている)。
建仁2年(1202年)、通親は54歳で病没した。
官歴
※日付=旧暦
1158年(保元3)8月5日、従五位下に叙位。
1161年(応保元)10月19日、治部権大輔に任官。
1165年(長寛3)1月5日、従五位上に昇叙し、治部権大輔如元。
1166年(仁安 (日本)元)11月13日、正五位下に昇叙し、治部権大輔如元。
1167年(仁安2)2月11日、右近衛権少将に遷任。
この年、禁色許される。
1168年(仁安3)1月5日、従四位下に昇叙し、右近衛権少将如元。
1月11日、加賀介を兼任。
2月19日、新帝(高倉)昇殿。
8月4日、正四位下に昇叙し、右近衛権少将如元。
1170年(嘉応3)1月18日、右近衛権中将に転任。
1177年(安元3)1月24日、加賀権介を兼任。
1178年(治承2)12月15日、東宮(後の安徳天皇である言仁親王)昇殿。
1179年(治承3)1月19日、蔵人頭に補任。
右近衛権中将如元。
12月24日、中宮(高倉天皇中宮平徳子)権亮を兼任。
1180年(治承4)1月28日、参議に補任。
左近衛権中将・中宮権亮如元。
2月25日、新院(高倉上皇)別当兼帯。
1181年(治承5)1月5日、従三位に昇叙し、参議・左近衛権中将・中宮権亮・播磨権守如元。
3月26日、播磨権守を兼任。
11月25日、中宮の女院(建礼門院)になるに伴い、中宮職廃止のため、中宮権亮を止む。
1183年(寿永2)1月7日、正三位に昇叙し、参議・右近衛権中将・播磨権守如元。
1184年(寿永3)1月20日、権中納言に転任。
1187年(文治3)1月23日、従二位に昇叙し、権中納言如元。
1188年(文治4)7月、淳和奨学両院別当を兼帯。
1189年(文治5)1月7日、正二位に昇叙し、権中納言如元。
7月10日、右衛門督を兼任。
1190年(建久元)7月17日、中納言に遷任。
7月18日、検非違使別当兼帯。
右衛門督如元。
1191年(建久2)2月1日、検非違使別当を辞任。
1193年(建久4)12月9日、右衛門督を辞任。
1195年(建久6)11月10日、権大納言に昇叙。
1198年(建久9)1月5日、後鳥羽院別当を兼帯。
1200年(建久10)1月20日、右近衛大将を兼任。
6月22日、内大臣に転任。
6月23日、右近衛大将如元。
4月15日、東宮(のちの順徳天皇こと守成親王)傅を兼任。
1202年(建仁2)10月21日、薨去。
享年54 時に、内大臣正二位兼行右近衛大将東宮傅
著作
『高倉院厳島御幸記』 治承4年(1180年)、高倉上皇の安芸国厳島行幸に随行した際の旅日記。
和漢混交文。
(『群書類従』紀行部・『岩波新日本古典文学大系 中世日記紀行集』所収)
『高倉院昇霞記』 治承5年(養和元年)(1181年)、高倉上皇崩御時の様子の記録と追悼文。
和漢混交文。
両者は合わせて『源通親日記』として伝わる。
笠間書院・勉誠出版(勉誠社文庫)から活字本刊行。
通親の子孫
嫡男源通宗は参議になったものの建久9年に31歳の若さで没した。
だが、その娘源通子と土御門天皇の間から後嵯峨天皇が誕生し、通親の一族は土御門・後嵯峨の2代の天皇の外戚になった。
その後、新たに台頭してきた西園寺家に押されて通親時代の繁栄を取り戻す事はなかったがそれでも通親の子供達―堀川通具・久我通光(嫡子)・土御門定通・中院通方はそれぞれ堀川家・久我家・土御門家・中院家の四家を創設し、明治維新にいたるまで家名を存続させた(ちなみに北畠家は中院家の、岩倉家は久我家の庶流にあたる)。
最も歴史に名を残したのは、通親と藤原伊子との間に生まれた六男である。
幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。
彼が南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。