源頼平 (MINAMOTO no Yorihira)
源頼平(みなもとのよりひら、生没年不詳)は平安時代中期の武将・官人。
源満仲の四男。
母は嵯峨源氏の源俊の娘。
同母兄弟に源頼光、源賢、異母兄弟に源頼親、源頼信らがある。
一説に兄頼光の養子となったとも。
従五位上、武蔵国守。
頼光と同様、主に京における中級官人として活動する。
長元4年(1031年)には正倉率分所別当の候補に名が上がるも、これを辞退したとの記録が残っている(『小右記』)。
その後出家したとされ、兵庫県宝塚市の普明寺 (宝塚市)は頼平の開山と伝わる。
長男従五位下伊豆国守柏原頼盛、次男従五位上土佐国守源忠季以下源頼風、祇園別当阿闍梨永壽、園城寺博士頼増、四天王寺別当頼昭らの子があった。
また、女子は三名が確認され、源資通、藤原季仲、源清政の室となっている。
子孫は柏原氏、檜坂氏、匂当氏などを称すが、三人の兄の家系ほどの活躍は見られない。
なお忠季の子忠尋は天台座主・大僧正となり、天台宗の発展に功績を挙げている。