源頼賢 (MINAMOTO no Yorikata)
源 頼賢(みなもと の よりかた、生年未詳 - 保元元年7月30日 (旧暦)(1156年8月17日))は、平安時代末期の河内源氏の武将。
源為義の四男。
母は源基実の娘。
同母弟に源頼仲、源為宗がいる。
左衛門尉。
次兄源義賢と仲がよく、父子の盟約を交わしたと言われる。
久寿2年(1155年)、義賢が甥源義平に討ち取られると、その復仇を果たすべく信濃国に下向、鳥羽天皇領を侵犯する。
これを知った法皇は、義平の父で頼賢の長兄にあたる源義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。
これにより、河内源氏一族内に緊張が高まったが、直前で義朝は頼賢追討を回避、頼賢もほどなく帰京した。
保元の乱では為義に従い、崇徳天皇・藤原頼長方として活躍。
義朝軍を相手に奮闘する様が『保元物語』に活写されている。
崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区 (京都市))において斬首された。