源頼遠 (MINAMOTO no Yoritoo)
源 頼遠(みなもと の よりとお、寛弘4年3月28日 (旧暦)(1007年4月18日) - 康平5年(1062年))は、平安時代中期の武将。
源頼親の三男。
源仲重、源有光、源家弘、源有宜、源有遠らの父。
従五位下、伊勢国守。
夫人は周防国守藤原棟元の娘。
通称は、福原三郎。
陸奥石川氏の祖。
父頼親の土佐国配流の原因となった興福寺との合戦に加わらなかったため、処分を受けることはなかった。
永承6年(1051年)、安倍頼良が乱を起こすと(前九年の役)、源頼義に従い陸奥国に赴いて戦う。
康平5年(1062年)、安倍氏 (奥州)の重要な拠点である厨川柵の攻略の際に戦死。
兵の指揮は子の有光が引き継ぐ。
戦功により陸奥仙道を下賜された有光は、岩峯寺を建てて父を葬った。