溝口健二 (MIZOGUCHI Kenji)
溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、東京都出身の映画監督。
女性を主人公に据えた情緒的な作品が多い。
黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと並び称される日本映画の巨匠。
来歴
東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる。
父が日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をやって失敗する。
そのため健二幼少時から非常な苦楽を嘗める。
尋常小学校卒業後、浴衣の図案化に奉公し、姉の援助を受けて黒田清輝主催の東京葵橋洋画研究所に学ぶ。
1918年(大正7年)に神戸又新日報に広告図案係として就職したが僅か1年で退職。
姉の家に居候しながら映画やオペラ、文学にひたり、日活の俳優であった富岡正の知遇を得、9年に日活撮影所に入社。
監督助手として小口忠や田中栄三らについたのを経て、大正12年2月、先輩監督の若山治のオリジナル脚本による『愛に甦る日』で24歳にして映画監督デビューを果たした。
しかし、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎて検閲で大幅にカットされ、やむなくつなぎで琵琶劇を入れて公開したという。
同年は一年のうちに10作を製作するなど多作なところを見せ、その内容も探偵劇から表現主義風までと様々であった。
「敗残の唄は悲し」で新進監督として認められた。
同年9月1日の関東大震災のため京都の大将軍撮影所に移り、「峠の唄」「大地は微笑む」などの佳作を手がけた。
しかし、14年「赤い夕日に照らされて」を撮影中痴話喧嘩のもつれから、恋人であり同棲中の雇女(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で斬られるという事件を起こし、しばらく謹慎処分となる。
以後女性をテーマにした作品に独特の感覚を発揮するようになる。
復帰後の15年に下町の情緒を下敷きにした女性劇の佳作「紙人形春の囁き」「狂恋の女師匠」を発表してからは女性を描く独特の感性にさらに磨きをかけ、昭和5年「唐人お吉」などが好評を博した。
この間、昭和初期の左翼思想の高揚に乗じて「都会交響楽」「しかも彼等は行く」などの傾向映画も監督してリアリズム追及に邁進した。
しかし、溝口自身は左翼思想の持ち主でもなく、プロレタリア運動が退潮後の7年には新興キネマに招かれて国策映画「満蒙建国の黎明」を撮るなど、変わり身の早いところも見せている。
1932年(昭和8年)、日活を辞め入江たか子の入江ぷろだくしょんで仕事をするようになった。
泉鏡花原作の情緒の世界を入り江たか子主演で描いた『瀧の白糸』が大ヒットし、キネマ旬報ベスト2位に入った。
9年、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、山田五十鈴出演で泉鏡花原作の「折鶴お千」、名脚本家依田義賢とはじめて組んだ「浪華悲歌」、京都の祇園を舞台にした傑作「祇園の姉妹」などを発表して名声を高めた。
同社が経営悪化のため解散した後は新興キネマを経て、松竹下賀茂撮影所に移り、村松梢風の「残菊物語」、初めて田中絹代を自作に迎えた「浪花女」、小学校時代からの旧友・川口松太郎原作の「芸道一代男」など秀作を連発した。
16年から17年にかけて長い撮影期間と破格の費用をかけて真山青果の「元禄忠臣蔵」を前後編の大作映画に仕立た。
松の廊下を完全に再現したという大掛かりなセットが注目を集めて文部大臣特別賞を受けたものの、興行的には大失敗するという苦渋を嘗める。
戦後は21年に絹代出演の民主主義的映画「女性の勝利」で復帰したが、「元禄忠臣蔵」での大失敗が尾を引いたのか不調が続いた。
24年、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性のシビアに描いた「夜の女たち」で長きスランプから復調。
その後は舟橋聖一「雪夫人絵図」、谷崎潤一郎「お遊さま」、大岡昇平「武蔵野夫人」といった文芸映画を作った。
27年には井原西鶴の「好色一代女」を基に絹代出演で撮った「西鶴一代女」を製作。
当初国内ではベストテン9位の評価だったが、ヴェネツィア国際映画祭に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、サンマルコ銀獅子賞を受賞。
ここから国内でも溝口の評価が変わる。
さらに28年には、上田秋成の原作を幽玄な美で表現した自信作「雨月物語」が同映画祭でサンマルコ銀獅子賞1位を獲得(この年は金獅子賞の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)に選ばれる。
この頃から海外にも熱烈な溝口ファンが生まれ始め、29年にも森鴎外「山椒大夫」でも同映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。
3年連続の同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。
3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。
29年、「近松物語」で芸術選奨とブルーリボン賞監督賞を受賞。
その後も「祇園囃子」「噂の女」「楊貴妃」「新・平家物語」と優れた作品を生み出すが、31年売春防止法成立前の吉原の女たちを描いた「赤線地帯」が遺作となった。
次回作「大阪物語」の準備中に体調を崩し、「ちょっと病院に行ってくる」と告げて病院に行った。
白血病だとわかり急遽入院したが、その当時の医学では手の施しようがなく、そのまま回復に向かうことなくこの世を去った。
享年58。
影響
ジャン=リュック・ゴダールをはじめ、フランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、ベルナルド・ベルトルッチ、ジャック・リヴェット、ピエル・パオロ・パゾリーニ、ビクトル・エリセなどヌーヴェルヴァーグ世代のヨーロッパの映画作家に多大な影響を与えた。
とりわけ溝口の墓参までしたゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、「好きな監督を3人挙げると?」との問いに「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えるほどだった。
没後50年にあたる2006年には、DVD BOXのリリースや名画座などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。
おもな監督作品
1953年までの作品は著作権の保護期間が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。
このためいくつかの作品が現在パブリックドメインDVDで発売されている。
受賞暦
西鶴一代女(1952年ヴェネツィア国際映画祭「国際賞」、BBC選出「21世紀に残したい映画100本」)
雨月物語(1953年ヴェネツィア国際映画祭「銀獅子賞」、米アカデミー賞衣装デザイン賞ノミネート、ナショナル・ボード・オブ・レビュー「経歴賞」)
近松物語(第8回カンヌ国際映画祭出品)
山椒大夫(1954年ヴェネツィア国際映画祭「銀獅子賞」)
新・平家物語 (1955年ヴェネツィア国際映画祭出品)
楊貴妃(1955年ヴェネツィア国際映画祭出品)
赤線地帯(1956年ヴェネツィア国際映画祭出品)
作風
演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌い、特に後年の作品においては1カットが数分に及ぶような長回しを多用した。
結果として流麗かつ緊張感にあふれた演出を編み出し、右腕であったカメラマン宮川一夫の撮影とあわせて高評価を得た。
上述通り女性を中心に据えた濃密なドラマの演出に才を見せる一方、歴史劇製作に際しての綿密な考証によっても知られる。
『元禄忠臣蔵』撮影の際は実物大の松の廊下のセットを製作(建築監督として新藤兼人が参加)した。
『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である京都大学人文科学研究所に協力を依頼したり、宮内庁雅楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用した。
このように、妥協のない映画作りを展開している。
また、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗考証担当に抜擢した事でも知られる。
役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。
出演者に強い負荷と緊張を強いる演出法ながら、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という香川京子のコメントなどの好意的な評価も見られる。
演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。
これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。
長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。
こうした一切の妥協を見せず、俳優やスタッフを厳しく叱咤する演出法から、「ゴテ健」とあだ名された。
「ゴテる」は「不平や不満を言うこと」を意味する当時の流行語。
『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを間前に出せ」といった。
それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない。
助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。
翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを一間下げろ」。
つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅してしまった。
ただしこの無茶苦茶な指示のは、演出に行き詰って苦悩してた溝口が時間稼ぎに行った苦肉の策だったともいわれる。
宮川一夫(カメラマン)、依田義賢(脚本)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)といった才能あふれるスタッフが溝口組に参加していた。
中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。
彼の手による溝口のデスマスクが、現在でも保管されている。
人物
映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、田中絹代とは公私にわたる親交を育んだ。
田中との親交を物語るエピソードとして、幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある。
また溝口は小津や新藤らに、田中への求婚の意志を漏らしたことがあった。
田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、これがもとで関係が冷却したといわれている。
ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともいわれる。
その田中は溝口没後、「他人だからという言葉では割り切れないものが、やっぱりわたしにはございますね」と語っている(『ある映画監督の生涯』)。
情婦を怒らせ斬りつけられるほど、女性に対する暴言は有名だった。
『祇園囃子』の際、若尾文子に対して決して名前を呼ばず「おい、子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒した。
かつて入江ぷろだくしょんに雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった入江たか子に対してすら、『楊貴妃』の際「化け猫ばかりやってるからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒している。
また『雨月物語』の際、水戸光子に向かって、「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言い放った。
一人田中絹代に対してのみは、「田中の頭では」の一言を除いて、常に紳士的な態度を崩さなかった。
他に『わが恋は燃えぬ』の際、菅井一郎に向かって、「君は脳梅毒です! 医者に診てもらいなさい!」と言い放った。
『山椒大夫』の際、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親を落胆させている。
一方で『雨月物語』撮影中には、会心の演技を見せた森雅之が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し、火を点けて労ったという話もある。
これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい。
『西鶴一代女』を製作した児井英生によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため、役者からもスタッフからも嫌われていた。
さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあった。
ただし、溝口に崇拝の念を抱いている新藤兼人などは人格面でも一定の評価を下している。
友人は少なかったが、幼馴染の川口松太郎や花柳章太郎とは長年にわたって親交を結んだ。
成瀬巳喜男の『浮雲 (映画)』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある。
両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである。
日本映画史上初の女性監督は坂根田鶴子(さかね たづこ)で、彼女は戦前の溝口作品で助監督を務めていた。
そして二人目は田中絹代であり、溝口は女性監督第1号と第2号に深く関わっていることになる。
映画会社から新人だった宮川一夫を使うよう命じられて、溝口はひどく立腹した。
しかし、いざ仕事をしてみるとその才能を認めた溝口は宮川を右腕として信頼し、こと撮影に関しては彼の意見の多くを取り入れる任ほどだった。
後に別の監督の作品が撮影が延びに延びたため宮川がその次に予定されていた溝口の作品に参加できなくなると、今度は「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に猛抗議するほどだった。
溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。
そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。
本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。
当初は宮川一夫からこれを指摘されても全然本気にしなかった。
しかし、ある日ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で画面のブレを目の当たりにして、「こんなに震えてるのかい?」と照れくさそうに笑っいながら素直にその非を認めたという。
『赤線地帯』完成後、溝口は体調を崩して入院した。
しかし、依田の手による次回作『大阪物語』は既にクランクインしていた。
これは『西鶴一代女』に続く井原西鶴ものであった。
スタッフが集められ、撮影が始まったところでの緊急入院となった。
溝口は西鶴の人間味溢れるバイタリティを高く評価していたため、この作品の映画化にとりわけ執念を燃やしていた。
見舞いに駆けつけた新藤兼人らに「ラストシーンの演出ができた」と語っていたほどだが、間もなく死去した。
同作は吉村公三郎が監督を引き継いで完成させている。