片桐且元 (KATAGIRI Katsumoto)
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、安土桃山時代・江戸時代の大名。
賤ヶ岳の七本槍の一人。
豊臣秀吉より豊臣姓をゆるされる。
父は近江国の戦国大名・浅井氏家臣の片桐直貞、母は不詳。
弟に小泉藩主となった片桐貞隆がいる。
略歴
近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の小領主・片桐直貞の子として生まれる。
須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きであり、同城の支城の一つとして機能するとともに、須賀谷温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。
元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)9月1日 (旧暦)にかけての織田信長による浅井長政への攻撃に際しては小谷城の落城まで一貫して浅井方として戦った。
落城前日(8月29日 (旧暦))の日付の浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現在も残っている。
且元が家督を継いだ時期は定かではない。
天正7年(1579年)ごろ、同じ近江生まれの石田三成らと共に長浜城 (近江国)時代の羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣として仕えたといわれている。
天正11年(1583年)5月、信長死後に対立した織田家の柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。
このとき、秀吉から戦功を賞されて3千石を与えられている。
その後は前線で活躍する武将ではなく、奉行人としての後方支援などの活動が中心となり、道奉行としての街道整備や、九州征伐では軍船の調達、小田原合戦では小田原城の接収に立会い、奥州仕置では浅利事件の調査を行う。
また、各地の検地や境界争論の調停、鎌倉の鶴岡八幡宮の修復造営などに携わる。
秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、釜山(現在の釜山市)に駐在し、晋州城攻撃などに参加。
文禄2年(1593年)に帰国。
文禄4年(1595年)には摂津国茨木城主、慶長3年(1598年)には大坂城番となり、城詰めとなる。
且元が与えられた所領は播磨国に一万石ほどに過ぎなかったが、秀吉の晩年には豊臣秀頼の傅役の一人に任され、羽柴姓も与えられている。
秀吉死後は秀頼を補佐し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦い後、五大老筆頭の徳川家康から大和国竜田藩に2万8千石の所領を与えられた。
その後も秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力した。
慶長19年(1614年)、大坂の役方広寺鐘銘事件が起こって対立が激化すると、且元は戦争を避けるために必死で家康との和平交渉に奔走したが、家康と交渉している間に大野治長や秀頼生母の淀殿から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を逐電した。
これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となっている。
そして大坂の役が始まると家康に味方して戦後、4万石に加増された。
だが大坂の役後から二十日ほどして、突如の死を遂げている。
これには病死説もあれば、秀頼を救うことができなかった(且元は、大坂の陣で家康に味方する代償として、秀頼の助命を嘆願していたらしい)ことからの責任を感じて、自殺したとも言われている。
死後、子の孝利が遺跡を継いだ。
人物
江戸時代に成立した『絵本太閤記』では、賤ヶ岳七本槍としての武勇伝が描かれている。
明治には、劇作家の坪内逍遥が史劇『桐一葉』において忠臣としての且元を描き、歴史学においても忠・不忠の視点で論じられた。
戦後に実証的研究が行われるようになると、昭和51年(1976年)に高木昭作は且元が豊臣家の家老でありつつも徳川方の国奉行であることに着目し、関ヶ原の合戦前後の政治状況を考察する際にも注目される。