狩野典信 (KANO Michinobu)
狩野 典信(かのう みちのぶ、享保15年11月11日 (旧暦)(1730年12月20日) - 寛政2年8月16日 (旧暦)(1790年9月24日))は江戸時代の竹川町家、後に木挽町家狩野派6代目の絵師である。
父は狩野古信で、子に狩野惟信がいる。
号は栄川院、白玉斎。
宝暦12年(1762年)33歳で法眼、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には御医師並となって、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となった。
典信は徳川家治の寵愛深く、通常新たな屋敷を拝領すればそれまでの土地は返却するのが習わしであるのに、安永6年(1777年)竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。
以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれた。
木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議はつねに典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。
安永9年(1780年)に法印となる。
18世紀半ば、南蘋派の流入が契機に本格的な民間画壇が育ち始めると、形骸化が進んでいた狩野派は飽きられ顧客が奪われ始めた。
これに危機感をもった典信は、漢画の力強い描線を復活させることにより弱体化した狩野派の再建を目指した。
こうした試みが将軍の好みと合致したのが、典信が寵愛を受けた理由であろう。
絵画表現においては、典信の意図は成功したとは言い難い面があるけれども、その意欲はのちの木挽町家の絵師に引き継がれ、木挽町家が幕末まで奥絵師4家の中で最も繁栄することとなる。
代表作
墨松墨梅図(石橋美術館)
大黒図(板橋区立美術館)
(板橋区立美術館)
田沼意次領内遠望図 (牧之原市相良城)
(静岡県立美術館)