田代栄助 (TASHIRO Eisuke)

田代 栄助(たしろ えいすけ、天保5年8月14日 (旧暦)(1834年9月16日) - 明治18年(1885年)5月17日)は江戸時代から明治時代にかけての侠客。
秩父事件では困民党の総理として蜂起を指揮した。
偽名は相馬義広。

田代勇太郎嘉之の子として武蔵国秩父郡大宮郷字熊木(現・埼玉県秩父市熊木町)に生まれる。
実家は江戸時代に忍藩の割役名主を務めたこともある名家であった。

農業を営むかたわら、他者の賃借などについて仲裁を行ったり、困窮者の手助けを行ったり、放浪者を救ったりするなど義侠心に厚かった。
秩父の郡民からは非常に信頼されており、子分と称する者は200人を越えるほどだったという。
しかし、明治に入ると微禄し、高利貸しから借金をするほどになっていた。

明治17年(1884年)初頭(1月下旬から2月上旬頃)には自由党 (日本)へ加入をするが、その手続きの後に党員の村上泰治から傲慢な態度を取られたため憤慨し、その後は関わりを持っていない。

同年9月、困民党に招聘され、総理に推挙される。
そして議論の末に蜂起を決定し、10月31日に蜂起を開始。
だが11月3日に持病の胸痛を起こしたため指揮系統から外れ、翌4日には本陣を離脱。
その後逃避して11月11日まで山に籠もり、11月14日に黒谷村(後に原谷村 (埼玉県)、現在は秩父市)の知人宅に宿泊。
しかしその家の下働きの老女に密告され、翌15日未明、就寝していたところを警官隊に踏み込まれて捕縛された。

その後取り調べを経て、明治18年(1885年)2月19日に死刑判決を受ける。
同年5月17日、加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作と共に絞首刑。
享年52。
辞世の句は「振りかえり 見れど昨日の影もなし 行くさき暗き 死出の山道」。

[English Translation]