白井松次郎 (SHIRAI Matsujiro)
白井 松次郎(しらい まつじろう、1877年12月13日 - 1951年1月23日)は、松竹の創業者の一人(松竹株式会社社長)。
興行、劇場経営者として活躍。
旧態依然たる明治の興行界に近代的なシステムを導入したことで知られる。
また関西歌舞伎をはじめ人形浄瑠璃などの古典芸能の保護振興につとめた。
その経済的な基盤を支えた面でも功績は大きい。
来歴・人物
1877年12月13日、京都生れ。
父大谷栄吉、母しも。
双生児の弟が大谷竹次郎。
実父栄吉は相撲の興行師で、妻に水場(売店)の経営をさせていた。
松次郎も幼いころから家業を手伝いつつ劇場の雰囲気に親しんだ。
やがて弟竹次郎とともに興行の世界を志すようになる。
1895年、実川正若一座を率いての巡業をはじめて行う。
それが認められて1897年に劇場仲売り白井亀吉の養子となる。
1902年、京都新京極に明治座(のちの京都松竹座)を旗揚げ。
興行界の刷新と演劇改良運動に熱心にかかわるようになる。
この年、弟とともに大阪市南区 (大阪市)葦原町に松竹合名会社を設立。
後に東京新富座買収によって東京に進出。
以降は、竹次郎が関東の、松次郎が関西の社長となる。
松次郎の運命を左右することになったのが大阪の人気役者初代中村鴈治郎との提携であった。
1905年10月の東京歌舞伎座への出演の際、はじめて手を組んだ。
これを皮切りに、翌1906年にははやくもかたい提携のもと道頓堀中座での興行を成功させた。
関西における足がかりを築いた松次郎は、同年のうちに京都南座を買収。
以後、大阪朝日座、同文楽座(1909年)、東京新富座(1910年)、大阪堂嶋座(1911年)、東京歌舞伎座(1913年)、大阪道頓堀角座(1917年)、大阪中座(1918年)を次々と手中に収める。
上方の興行界を完全に席巻すると同時に、東京にも着実に進出しはじめる。
松次郎の武器は、関西を中心とする鴈治郎の絶大な人気と、興行における近代的なシステムの導入であった。
劇界に根強い陋習を可能な限り廃した。
金の流れを透明にした。
これによって、ヤクザなどが興行に介入することを阻止。
一方で芸人の地位や待遇の向上に尽力した。
数人の名題役者が巨額の賃金を得、それによって門弟を抱える江戸時代以来の制度を改めた。
名題から下廻りまで一律に会社が賃金を支払うシステムを確立した。
こうして、興行を不安定化させる要素を極力とりのぞくことにつとめたのである。
このほか、細部にわたる改革については枚挙に暇がない。
1909年には、義侠心から人気の低迷していた人形浄瑠璃(文楽)の経営権を譲りうけ、保存と振興に尽力する。
(それまで松次郎はほとんど文楽に興味を持たなかったが、上方者としての責任として損得抜きでその立直しにあたったという)。
1920年にはさらに竹次郎と共に松竹キネマを創立して映画に進出。
1921年、日本ドリーム観光の社長に就任し、経営に当たる。
1929年には、関西松竹を統括する松竹土地建物興業株式会社が創立され、社長に就任。
この間も興行、特に人形浄瑠璃に熱心にとりくんだ。
1930年には大阪の四つ橋に文楽座を新築。
さらに1932年には千日前に大阪歌舞伎座も新築。
1933年には同じく千日前に大阪劇場を開場する。
1937年には、竹次郎が興した東京松竹を統括する松竹興業株式会社と合併。
松竹株式会社が成立し、会長に就任した。
1946年、戦後の復興期のなかで古典芸能の保護振興を志す。
焼跡にまず四つ橋文楽座を再興。
つづいて道頓堀浪花座(同年)、角座(1947年)、中座(1948年)を続々と復興。
また、5代目笑福亭松鶴らを援助して上方落語復興に取り組んだ。
戎橋松竹(1947年)を会場。
その後の上方落語再興の契機を作った。
1951年1月23日逝去。
享年75。
没後勲四等瑞宝章追贈。
また、白井の葬儀に参列した事で實川延若 (2代目)は風邪を引き、これを拗らせて1カ月後に逝去。
白井と延若の死は、ある意味では関西歌舞伎の一時代の終焉でもあった。
その功績を評価される一方、あまりに初代鴈治郎中心主義だった。
白井と鴈治郎の没後、関西歌舞伎はその中心を欠いた。
これが凋落の遠因となったとして、非難されることもある。