百済意多郎 (KUDARA no Otara)
百済意多郎(くだらのおたら)は日本書紀武烈天皇三年十一月条に次のように書かれている人名である。
「是の月に、百済の意多郎卒す。高田丘上(たかだのおかのへ)に葬る。」
これ以外の記事が見えないので不詳であるが、日本書紀にその没年や墳墓の所在地が記されるため、百済の王族だろうとされる。
(岩波日本古典文学大系・日本書紀下参照。
)とすれば、雄略天皇五年に来朝した百済王弟・昆伎王(軍君)に関係する人物である可能性が高い。
三国史記によれば、昆伎王自身は百済文周王三年条に「内臣佐平(百済の官職)昆伎卒す。」と見えるので、帰国したと考えられる。
しかしながら、大阪府羽曳野市の飛鳥戸神社(延喜式名神大社)の祭神が昆伎王であることを考えると、その子孫が日本に残留したのは間違いないと考えられる。
しかも三国史記によれば、昆伎王の子、末多(たま)王は東城王として百済王位に就いており、百済意多郎が卒した年にも在位していた。
とすれば百済意多郎とは百済東城王の弟として朝廷に滞在していた人物である可能性もある。
意多郎の墳墓はまだ判明していないが、武烈天皇陵と伝えられる奈良県大和高田市の築山古墳 (大和高田市)(生前に作られた寿陵だろう)の陪塚あるいは領家山古墳周辺に求めるべきと思われる。
また大和高田市に隣接する北葛城郡広陵町に百済地名が残存しているのも興味深いところである。