石田重家 (ISHIDA Shigeie)
石田 重家(いしだ しげいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。
関ヶ原の戦いで有名な石田三成の嫡男。
官位は隼人正。
生涯
天正11年(1583年)、石田三成の嫡男として生まれたとされる。
慶長4年(1599年)閏3月3日夜、前田利家の死去により、父の三成と敵対関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将(史料によっては蜂須賀家政や藤堂高虎の名もある)が、父の大坂屋敷を襲撃した。
しかし父は事前に佐竹義宣 (右京大夫)の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。
その後、仲裁に乗り出した徳川家康により和談が成立し、父は五奉行からの退任を承諾した。
慶長5年(1600年)、会津征伐に参陣していた大谷吉継から家康の下へ参陣するように勧められたが、その後関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣氏に対する人質として大坂城に留め置かれた。
しかし、関ヶ原本戦で父をはじめとする西軍が東軍に大敗して壊滅したことを知ると、重臣の津山甚内や乳母などの手によって密かに大坂城から抜け出して京都妙心寺の塔頭寿聖院に入り、住職である伯蒲恵稜の手によって出家し、仏門に入った。
因みにこの寺院は、三成が父の石田正継のために建立した寺である。
そして重家は京都所司代・奥平信昌を通じて、家康に助命を嘆願する。
家康も仏門にある重家を殺すわけにはいかず、それを許した。
後に重家は寿聖院の三代目を継いだ。
貞享3年(1686年)閏3月8日、死去。
享年104(生年には異説が多く、正確な年齢とはいえない)。
戒名は宗享。
一説に、晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある。