福島忠勝 (FUKUSHIMA Tadakatsu)
福島 忠勝(ふくしま ただかつ、慶長3年(1598年)- 元和 (日本)6年9月14日 (旧暦)(1620年10月9日))は、江戸時代の外様大名。
高井野藩第2代藩主。
福島正則の三男。
母は津田長義女。
義兄・福島正之(本来は従兄弟)が没した後、嫡子となった。
初名は正勝。
幼名は市松。
豊後守。
尾張の清洲城に生まれた。
初名は正勝だが、2代将軍徳川秀忠の諱字を賜って、忠勝と名乗った。
父の正則は江戸城留守居役として江戸に留めおかれたが、1614年、大坂の役大坂冬の陣に出陣。
翌年の大坂の役大坂夏の陣は遅参したため、破壊された道や堤の修復をした。
元和5年(1619年)、父の正則が幕命によって改易された時、将軍徳川秀忠の上洛に随行していたが、父と共に高井野藩に移った。
この際、正則から家督を譲られた。
しかし翌年、父に先立って死去した。
この時、正則は悲しみのあまり、越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上している。
墓所は、須坂市小河原の大乗寺。
墓石には、正勝と記されている。
ほかに京都市妙心寺塔頭・海福院(福島正則創建)にも墓がある。
戒名は、性光院殿前忠勝太子華香清徹大禅定門神儀。
弟の福島正利が3000余石の旗本として福島氏を再興したが、のち嗣子なく断絶した。
しかし、その後、京に住んでいた忠勝の子・福島正長の長男で孫福島正勝が召し出され、小姓組大番として仕え、以後、福島氏は2000石の旗本として存続した。