稲富祐直 (INADOME Sukenao)
稲富 祐直(いなどめ すけなお、天文 (元号)21年(1552年) - 慶長16年2月6日 (旧暦)(1611年3月20日))は、戦国時代 (日本)から江戸時代初期の砲術家。
稲富流砲術の開祖。
号は一夢、理斎。
別名に直家。
稲富直秀の子で、稲富祐秀の孫。
伊賀守。
弟に稲富直重。
弓木城主。
祖父・祐秀から砲術を学んだため、砲術に優れ、それをさらに発展させて稲富流砲術を創始したと言われている。
一色氏にはじめは仕えていたが、1582年に一色氏が滅亡したため、細川忠興に仕えた。
慶長の役では、蔚山倭城に籠もって活躍したという。
1600年、関ヶ原の戦いが起こったときは、細川氏の大阪屋敷にいて、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて自殺すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。
このため戦後、愛妻のガラシャを失った忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命された。
その後は、松平忠吉や徳川義直に仕えたという。
後に剃髪して一夢 理斎と号した。
井伊直政や浅野幸長なども弟子にした。
しかし加藤清正からは、「売名家」として非難されている。
戦の際に具足を二枚重ねて着ていたため二領具足の異名を持つ(長宗我部家の一領具足とは関係が無い)。
子がいなかった為に、実姉の子稲富秀明を養嗣子としたが、正保年間(1644年~1648年) に没した為、
その弟稲富秀隆が後を継いだ。