稲葉正往 (INABA Masamichi)
稲葉 正往(いなば まさみち・稲葉 正通)は江戸時代の大名、老中。
相模国小田原藩3代藩主、越後国高田藩主、下総国佐倉藩初代藩主。
正成系稲葉家宗家4代。
稲葉正則の長男。
父・正則は大老酒井忠清に連なる側近で長らく老中として現職だった。
正往自身も、家督相続以前から奏者番兼寺社奉行、京都所司代と、幕職についていた。
延宝8年(1680年)、徳川家綱が危篤に陥った時、忠清は有栖川宮幸仁親王を5代将軍に擁し、正則もこれに歩調を合わせたが失敗したため、綱吉が5代将軍につくと間もなく隠居を余儀なくされ、正往が44歳にして正式に家督を相続した。
この事件の余波で、まもなく江戸に近い小田原から越後高田に転封を命じられ、所司代も免職された。
15年後、江戸城留守居役をへて、老中として幕政に返り咲き、また、領地も下総佐倉に移された。
赤穂浪士による吉良邸討ち入りの当日、たまたま月番老中であった正往は、柳沢吉保が登城する前に事後処理を速やかに開始し、浪士たちが即刻処分がされることのないように配慮するなど、したたかなところも見せている。
老職のかたわら石州流茶道を嗜んだ。
宝永4年(1707年)隠居し、家督を次男の正知に譲る。
吉宗政権時には、酒井忠挙、小笠原長重と共に先代の遺老、学識豊かな人物として老中なみの待遇を受け、江戸城にもしばしば召し出されている。
享保元年(1716年)に死去した。
年譜
1640年(寛永17年) 生まれ
1681年(天和 (日本)元年) 奏者番兼寺社奉行(4月9日 (旧暦))、京都所司代(11月15日 (旧暦))
1683年(天和3年) 家督相続・10万2000石
1685年(貞享2年) 京都所司代を免職・高田に国替(12月11日 (旧暦))
1700年(元禄13年) 大留守居役
1701年(元禄14年) 老中(1月11日 (旧暦))、佐倉に国替(6月)
1707年(宝永4年) 老中辞任(8月2日 (旧暦))、隠居
1716年(享保元年) 死去(享年77)
官位位階
1654年(承応3年) 従五位下丹後守
1681年(天和元年) 従四位下侍従
1707年(宝永4年) 内匠頭
墓所:養源寺(東京都文京区千駄木5丁目)