稲葉貞通 (INABA Sadamichi)
稲葉 貞通(いなば さだみち、天文15年(1546年) - 慶長8年9月3日(1603年10月17日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。
豊後国臼杵藩の初代藩主。
生涯
天文15年(1546年)稲葉良通(一鉄)の次男として生まれる。
はじめ父と共に美濃国斎藤氏に仕えていた。
永禄10年(1567年)に織田信長の侵攻軍の前に降伏した。
その後は父と共に信長の命に従って各地を転戦した。
天正7年(1579年)に家督を譲られ、美濃国曾根城主となる。
天正10年(1582年)の本能寺の変では京都にいた。
だが、信長が殺されたことを知ると急いで本国に逃走した。
翌年の賤ヶ岳の戦いでは豊臣秀吉に与した。
だが、当時の美濃は信長の三男・織田信孝の支配下にあった。
旧主の息子に刃向かう迷いがあった。
そこで貞通は長男・典通に家督を譲っている。
天正11年(1583年)秀吉に従い伊勢国嶺城を攻撃した。
この帰路に土民の一揆に襲われて、壊滅の危機に瀕した。
みずから殿軍を務めて3度にわたって一揆勢を追い散らし一揆勢を退かした。
天正15年(1587年)の九州征伐に典通と共に出陣。
典通が秀吉の機嫌を損ねて蟄居を命じられたため、再び家督の座についた。
この年の冬に従五位下・侍従に叙任する。
天正16年(1588年)には郡上八幡城に移り、郡上八幡城の大改修を行った。
同年4月14日、後陽成天皇の聚楽第への行幸のときは供奉に列した。
この年に羽柴姓を下賜された。
天正18年(1590年)3月の小田原の役には1200余の兵を率いて参陣した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役においては諸将とともに朝鮮半島に渡海して転戦した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでははじめ西軍に与して郡上八幡城に籠もった。
しかし、東軍の遠藤慶隆、金森可重らに攻撃されて落城。
その後は東軍についた。
本戦では加藤貞泰隊に従って活躍した。
その戦功により、戦後は美濃国八幡藩4万石から豊後国海部郡 (豊後国)、大野郡 (大分県)、大分郡の3郡内に領地を持つ5万60石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。
慶長8年(1603年)9月3日、57歳で死去。