立花峯均 (TACHIBANA Minehira)
立花 峯均(たちばな みねひら、寛文11年(1671年)- 延享2年12月19日 (旧暦)(1746年1月10日)は、江戸時代の南坊流の茶人。
同時にまた、宮本武蔵の流れを汲む筑前二天流第5代の兵法家でもあった。
初名は久太郎、のち専太夫。
諱は峯均。
号は宗樸、無華、寧拙など。
このうち茶人としては寧拙号が知られている。
晩年の道号は廓巖。
また、宮本武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』の奥書に「丹治峯均入道廓巖翁」と記したことから、丹治 峯均(たんじ ほうきん)の名でも知られる。
生涯
福岡藩黒田氏の家老・立花重種の四男として福岡に生まれ、19歳の時から黒田綱政に仕えた。
兄弟には、長兄・立花重敬が、父・重種の家督を継いで、家禄万石余の黒田家家老。
次兄・立花実山(重根)は黒田光之の側近で、光之隠居後も御納戸頭として近侍した。
ことに重根は、当時福岡黒田家中を代表する文化人で、実山と号し、京都文化とのつながりも深く、茶の道に独自の運動を展開した。
茶書『南方録』の発掘と編纂は立花実山の名を今に伝えている。
峯均はこの次兄・実山の薫陶を受けた茶人で、利休の秘書とされる『南方録』の書写を許された実山の高弟の一人であった。
茶人寧拙の名は寧拙本『南方録』で知られる。
また一方で、立花峯均は21歳のとき、宮本武蔵の流れをくむ筑前二天流第4代・吉田実連に入門した。
以後十数年の修行の功を認められ、33歳の時に一流相伝を受けた。
この時、吉田実連が老病のため、吉田実連の師匠である柴任美矩より播磨国明石市で審査を受けた等々のことは、『丹治峯均筆記』に詳しい。
柴任美矩は宮本武蔵の孫弟子にあたる。
立花峯均38歳のとき、兄・立花重根が逮捕粛清された事件に連座して、玄界灘の孤島・大蛇島(小呂島)へ流罪となった。
重根は籠居後、半年足らずで死亡するが、自害したとも暗殺されたとも言われる。
これは、隠居黒田光之の死後、その機を待っていた黒田綱政による光之派一掃の荒療治であり、立花峯均はこの粛清事件に巻き込まれた恰好であった。
それから7年後の、峯均45歳のとき、ようやく赦免されて帰還できた。
それでも、峯均は全面的に赦されたわけではなく、三兄・立花小左衛門増武の監督下におかれ、増武の領地・志摩郡青木村(福岡市西区)に住むようになった。
帰還早々の同じ年、峯均=寧拙は重要な仕事をした。
すなわち、兄・立花実山が遺した『南方録』七巻に対し、さらに「追加」「秘伝」の二巻を編集して増補したことであった。
峯均52歳のとき、宮本武蔵の流れをくむ筑前二天流第5代として、3人の門弟に兵法伝授した。
そのうち二人は、峯均の甥で、立花勇勝と立花種章(増寿)であり、もう一人は桐山丹英であった。
そうしてまた、立花峯均は57歳のとき、宮本武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』を書き上げた。
同時に、この武蔵伝記に附録するかたちで、「追加」として二祖・寺尾孫之允信正、三祖・柴任三左衛門美矩、四祖・吉田太郎右衛門実連の略伝を加え、また「自記」として自伝が附録した。
この文書は『丹治峯均筆記』という通称で知られている。
立花峯均は晩年、「半間庵」に隠棲し、丹治峯均入道廓巖を名乗った。
『薦野家譜』(福岡県立図書館所蔵)等によれば、丹治は先祖の姓である。
筑前国糟谷郡薦野城主となり薦野姓を称す。
戦国時代 (日本)期は大友氏の幕下となって歴戦、立花道雪に従って立花城に入り立花家を支える。
立花道雪・統虎(宗茂)父子よりの感状数十通と伝えられる。
増時の時に筑後国柳川城主立花宗茂の家老となり、一族の扱いを受けて立花姓を与えられる。
立花家は関ヶ原の戦いに西軍に味方して敗れたため、増時は筑前国主となった黒田長政の懇望に応じ、一類と共に仕え、秋月藩3万石の執事となる。
3代藩主黒田光之の時、3代目黒田重種が家老職となり、家禄1万500石、黒田姓を与えられて黒田平左衛門重種と称した。
ちなみに重種弟の吉左衛門増弘は6300石で兄弟ともに家老職に任ぜられ、長兄(妾腹)長左衛門重直も1500石を賜った。
「薦野氏系譜略二」によれば、延享2年(1745年)12月19日、命日はちょうど武蔵没後100年の月命日であった。
本当は15日に卒したが、遺言で19日としたと伝えている。
享年75。
戒名は無華斎廓巖宗朴居士。
博多の東林寺に葬る。
立花峯均には一女があったが、結婚後初産で死亡した。
峯均に男子なく、その家は断絶した。
ただ、茶書『南方録』と、宮本武蔵の伝記を含む『丹治峯均筆記』を遺したということで、茶の道と兵法の道の二つの道に貢献をした人物である。