筑紫君磐井 (Tsukushinokimiiwai)

筑紫君磐井(つくしのきみ いわい、? - 528年?)は、古墳時代末の九州の豪族。
『日本書紀』によれば朝鮮半島南部の任那へ渡航しようとするヤマト王権軍をはばむ磐井の乱を起こし、物部麁鹿火によって討たれたとされる。

『日本書紀』には「筑紫国造磐井」(つくしのくにのみやつこいわい)として記されるが、実際は『筑後国風土記』逸文や『古事記』に見られるとおり、筑紫君磐井と称したと考えられており、この呼び名が通説となっている。

以下は主に『日本書紀』の所伝によるものである。

生涯

『日本書紀』には、ヤマト政権軍と交戦した際、将軍の近江毛野に対して磐井が「かつては同じ釜の飯を食べた仲ではないか」と呼びかけたとする記述があり、磐井は若い頃、九州からヤマトへのぼり、ヤマト大王の元で毛野らとともに仕えた経験があると考えられている。
埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘文からも、古墳時代当時、地方の豪族の子弟らが若い頃にヤマトへ行き、大王に奉仕する慣習があったのではないかと推測されている。

527年6月にヤマト政権は、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、近江毛野率いる6万の兵を任那へ派遣した。
『日本書紀』は、磐井はかねてより反逆の企てを抱いていたものの実行に移せないでいたが、それを知った新羅は磐井へ賄賂を送り、ヤマト政権への反逆を勧めたとしている。
磐井は火(肥前国・肥後国)と豊(豊前国・豊後国)を制圧してヤマト政権軍の進軍を妨害し、朝鮮半島との海路も封鎖して、朝鮮半島から来航する朝貢船を押さえた。

同年8月、ヤマト政権の継体天皇は物部麁鹿火を将軍に任命して、筑紫へ派遣した。
磐井軍と麁鹿火軍の決戦が行われたのは、528年11月、筑紫三井郡で、激しい戦闘の後に磐井は捕らえられ、麁鹿火に斬られたとされている(『日本書紀』)。
ただし、『筑後国風土記』逸文は、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト軍はその跡を見失った)と記している。

息子の筑紫君葛子は、糟屋(現・福岡県糟屋郡)の屯倉をヤマト政権に献上したため死罪を免れた。

北部九州最大の古墳である岩戸山古墳(福岡県八女市)は、磐井の墓とされている。
反逆者には似つかわしくないほど大規模な墳墓であり、反逆後に大きい墳墓を作る余力があったのかとか、生前に築造したものならなぜ反逆後にそのような大きい墳墓が取り壊されなかったのかなど、様々な議論を呼んでいる。
『筑後国風土記』逸文によれば、磐井は生前から自らの墓を築造していたとされるが、真偽は不明である。

『古事記』などの記述から、北部九州で勢力拡大していた磐井が、継体天皇から討伐されたと主張する研究者(水谷千秋)もいる。

[English Translation]