糟屋武則 (KASUYA Takenori)

糟屋 武則(かすや たけのり)は安土桃山時代・江戸時代の大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家で、播磨国にて別所氏の家臣であった糟屋忠安の次男。
兄に糟屋朝正(友政)。
姓は糟屋の他に糟谷・粕屋・加須屋とも記され、有名な名乗りとしては「加須屋真雄(かすやさねかつ)」とも。
名乗りは他にもあり、数正、宗重、真安、宗孝など、いずれも武則の別名として伝わっており年代によって違うことから、本人の名なのか、子なのか混乱もある。

甥に弓の名手として名高い加須屋武成がいる。

経歴

本姓は志村だったとされている(武則の母が兄朝正を産んだ後、豪族志村氏と再婚し、その際に産まれたのが武則である為。)。
しかし、天正5年(1577年)の豊臣秀吉の播磨攻めの時に朝正が別所長治について三木城に入った為、武則は兄と袂を分かって織田方につき、糟屋の姓を名乗った。
その後武則は黒田孝高の推挙により羽柴秀吉の小姓頭となっている。
そして天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで武則は佐久間盛政配下の宿屋七左衛門という武士を討ち取るなどして活躍し、福島正則や加藤清正らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。
その後も小牧・長久手の戦いや九州征伐、小田原征伐などに兵150名を動員して参加している。
また軍事だけでなく、天正14年(1586年)に方広寺大仏の作事奉行を、天正19年(1591年)には近江国検地奉行となって増田長盛らと共に検地を行うなど行政面でも事績を残している。
更に天正14年(1586年)には従五位下内膳正に任官。
後陽成天皇の聚楽第行幸の際にも天皇の行列に供奉している。
この他文禄の役では目付として朝鮮に渡海しており、文禄元年(1592年)には新庄直忠らとともに朝鮮人逃亡流民の帰郷を促す訓令を発布するほか、同年に第一次、翌文禄2年(1593年)には第二次晋州城攻防戦に参加するなどして活躍し、文禄4年(1595年)8月に六千石加増され、播磨加古川城主(12000石)になる。
また、文禄3年(1594年)には伏見城の普請にも参加した。

のち関ヶ原にて七本槍の中で唯一西軍に加わり、360名の兵を率いて伏見城の戦いや関ヶ原の戦い等に参加した。
戦後改易されるが、後に許され慶長7年(1602年)に旗本として召抱えられ、500石という小禄ながら徳川家臣となる。
だがその死後、糟屋家は再び断絶となった。
また、糟屋宗孝というのは息子の名前であり、武則の死後大坂の役に豊臣方で参加し討死にしたとも言われる。

なお、滋賀県長浜市の長浜市立長浜城 (近江国)歴史博物館に武則所用の大身槍が所蔵されている。

[English Translation]